心のとげぬき。

境界性人格障害者の被害者のトラウマを減らしたいがためだけにブログをはじめてみました。

ブログ開設の目的

○ブログ解説の目的

一人でも多くの境界性人格障害の被害者を笑顔にする。

心のとげぬきのお手伝いができると嬉しいなと思い作ってみました。

これからの時代、精神的に欠陥を抱えた人間が増加すると思うんですよ。
誰しも突き詰めてしまえば何かしらの疾患は抱えているものですが、中でも境界性人格障害のやばさはビキブリ並みだと思うんですよ。

共依存やDV、回避性、妄想性・・・など色んな人格障害があるんですが、全部の精神障害のいきつく場所と言いますか、全ての要素を孕んでいる者が境界性人格障害という感じで私は捉えています。

しかも、高機能性はどんどん時代の流れに沿って進化していくと思うんですよね。
こちら側が知識と耐性をつければつけるほど、水面下でより狡猾に動くようになるはずなんです。それ以外は低機能性なので生き残る事はできないでしょうが、生き残った者はそらに知恵と経験を積み、さらなる害悪を生み出す渦となるでしょう。

そうなると、境界性人格障害の被害者ってどんどん自殺してしまったり、運よく生き延びてもその後の人生が閉ざされてしまったりするはずなんですね。
逃げた直後なんかは、もう身動きもできないほどに芋虫状態に身ぐるみはがされてしまう人もいますから。
物理的にも精神的にも相当な負荷がかかってしまつていますからね。
私自身も境界性人格障害の母から生まれて相当な傷を負ったので、絶対に後世に残してはいけないと思ったんです。
個人的には、“虐待”ではなく“拷問”という単語にそろそろ変換されて行ってもいいと思うのですが、時代の流れ的にもね。

今は時折思い返しても、そんなこともあったな。カワイイ思い出だなあ。なんて笑い飛ばせるのだけど、やはり子供の時は辛くて仕方なかったし、まともな会話ができる両親がよかったと切に願っていました。
今はもう完全にあきらめているし、もう二度とあうつもりがないので何とも思っていないのですが。
私の主張では、“拷問”されていた事実を赦さなくていいと思っています。
赦せたなら、その方が人間として致命的欠陥だと思うんです。
理不尽な行為をまるっと受け入れるってことですもんね。

無理なものは無理なんですよ。

意味もなく殴られて、首を絞められて、心も自由が利かなくなって。
そんなの許せるわけがないんですよ。
怒っていいんですよ。
泣いてもいいんですよ。
それすらできないわけなんですが。
なので、私は“条件付きでゆるした”状態なんですけど、これすごく楽です。
今すごく充実しているし、毎日がキラキラしていて楽しいし、多少のことでは動じなくなってます。

それもそのはずなんですよね。
もう母とは二度と会わない
という条件付きで許しているから。

なぜなら、母は条件付きで私を愛したから。
もしこれからも私の人生でちらちらと目障りな事をしたら許さないし、社会的制裁を加えることも恐れません。
“良い子でいること”“聞き分けのいい子”“指示通りに動く子”だったから愛されたわけで、そんなものは無償の愛でもなんでもありません。
ありえません。

そんなものは、ただのエゴでしょう。

なので私も“これから私に関わらないのであれば今までの仕打ちはゆるす”と言った感覚でしょうか。
未来に干渉しないのなら、過去は流そう。
でもこの考え方に自然に辿りくことで本当に日々の不安もストレスも全くなくなったんですよね。抜け毛も減ったし(笑)。少し体重は増えたけど、身体的に後遺症もほぼないし、人間が怖くなくなったんですよね。

よく、本やサイトでは、「親の罪を赦す、それが一番の解決の近道」などと言っていますが、今までずっと“条件付きの愛”の中で生き抜いてきたのに、突然無条件で赦せたならそんなのって神ですよね。
もう宗教でも作って、バッチリ空中浮遊して教祖にでもなって、日本経済でも回した方がいいですよね(笑)。
絶対にできないとは言いませんが“理不尽な仕打ちや拷問”を赦す“無償の愛”にたかる生き物もいるんですよ。

つまり、“条件付きで赦す”お手伝いをしていければそれ以上の幸せはないのかなって思ったからこのブログは誕生したんですね。

そうじゃないと私が“拷問”されていたのって何の意味もなくないですか。
“虐待”されていた子供たちってそのあとの方が圧倒的に生きづらいじゃないですか。
いいお手本がいないし、そんな風になりたくないから悩むんですよね。
もしくは、自分もそうなってしまうのではないかと思ってしまうから。
それを手探りで模索しづ付けて、それでも何度も失敗して、時にはまた同じような人間に遭遇して痛い目にあって。
これが何度も繰り返されるのかって思って絶望したくなって。

だけどそれを何度かしているうちに「じゃあ私があの家に生まれた意味って何だろう」って思った時があったんですよね。
もしも本当に全ての出来事に意味や理由があるはずならそれを見つけて、さらに叶えて死んでみようと思ったんですよね。
死んでみようって言っても軽いノリじゃなくて、自殺でもなくて、ただ与えられた時間に感謝してほのぼの生きてみようかなと。
残された時間を抱きしめながら。

少しも自殺したいとか死にたいなんて思っていないので安心してくださいね。
そんなこと考える暇があるなら、筋トレでもしていた方がよっぽど意義深いですもんね(笑)。

もしもこの人生に理由があったとするならばですが。
私があの悲惨な家に産み落とされた理由は、同じ環境で死に物狂いで生き延びようとしている子供たちに手を差し伸べることだったんだろうなって思います。
誰に何と言われても、そう信じているのです。

そうでないと、ただ私だけが生き延びて、それでただ死んでいくのならば何の生産性もないですからね(笑)。

子供といっても虐待された子供たちは子供のままだと思うんですよ。
成人して、社会にどんどんでて、出世しても子供のままだと思うんですよ。
人によっては結婚して、子供もできて、周囲ともうまくいっているはずなのにどこかで何かを置き忘れているような。
きっとそういうのが、子供の時のもう記憶の彼方に忘却させてしまった“不幸の種”なんですよ。

だからそれに気が付いて、そっと摘み取って完全に消化してあげなくては同じことを繰り返すと思うんですよ。
自分でその因果を断ち切るまでは。

子供時代に好きなこともさせてもらえず、純粋に思ったことも口に出すことも許されなかったので、そのまま大人になってしまうわけですから。
本人の意思などそこにはなく、強制的に時には暴力で、時には洗脳という形で子供が子供らしく要る事を奪う人格障害

こんな残酷な仕打ちをした人間に対して何も感じないのならその方がどこかおかしいでしょう。

だからどこかでおかしいと思っていても子供のまま大人にされてしまうので、なかなか言い出せないんですよね。
むしろ体が大きくなればなるほど、心の葛藤も大きくなるのかもしれません。
赦そうとすればするほど、赦せないと喘いでしまうのかもしれません。
だって苦しいですから。
死ぬほど苦しいですから。

だから、今は接触していなくても子供のまま大人になってしまった人達も、今現在家から出たくて殺されてしまいそうな子供たちも、一人でも多くの人間をすくいあげることだと信じ切れるんですよ私は。
違うな。
私だから、信じられるんです。
私は信じられるんじゃなくて、私だから信じられるんだ。

残りの時間を全部使い切ってでも一人でも多くの子供たちに言葉を残し続けよう。

簡単に言うと、心のとげぬきのお手伝いをさせてください。ということですね。

だって機能不全の家庭で育った子供って程度の差こそあれど、絶対に心にトゲがささったまんまだと思うんですよ。
物理的な場合もあるだろうし、精神的なものである場合もあるだう。
色々な形になって数年後に出現することもあるだろうし。
時差爆弾みたいな(笑)。

でもここを甘えの場とするのではなく、依存するような事は書かないつもりです。
ここは一種の通過地点、フルマラソンの途中の給水場のような場所とお考え下さい。

できれば、こんな人格障害との闘いなどそれそのものがなくなることが一番いいのですから、それにより傷ついた人間を癒す事も本来ならばせずに済むならそれほどいいことはありませんもの。

今のところは文章校正能力も拙いながらも、わかりやすい共依存をも断ち切るような記事を書くことが目標ですかね。

基本的に人格障害やそれらに接触することでできた心のトゲを自然にぬけるような言葉たちを毎日続けて行くつもりなので、よろしくお願いいたします。