心のとげぬき。

境界性人格障害者の被害者のトラウマを減らしたいがためだけにブログをはじめてみました。

セロリが相方と呼ぶ理由

○セロリが相方と呼ぶ理由

セロリにおいては、

・初対面で目をあわせない
・親友のことを相方と呼んでいた(名前を呼ばない)
・目が笑っていない
・歯がドブネズミのように汚い
・家族に虐待されていた発言
・おごってもらって当然発言

とりあえず、パッと浮かんだのはこれくらい。


中でも
・親友のことを相方と呼んでいた

について、分析してみたので、スポットを当てて分かりやすく解説していこう。

親友のことを名前で呼ばない。

今の私なら、何かしら後ろぐらい関係なのか?と、本人に直接問いただすくらいに、引っ掛かる点だ。
そのくらい、ぴんとくるものがある。

参考になればよいが、君達は親友を名前意外で呼ぶだろうか?

初対面のあの日は他人行儀なのは仕方無い。
親しくない関係であれば、“主人”と呼び、仲がよい相手には“旦那”と呼ぶようなものなのだから。
気の許せる仲や、家族ぐるみの付き合いになれば名前で呼ぶこともあるだろう。

けれど、付き合いの最後までセロリは自分の親友のことを名前で呼ぶことは一度もなかった。

ずっと、“相方”と呼んでいた。
もしくは、“親友”だ。
または、“相棒”だった。

私達がであったSNS (ここではゴキホイと呼ぶ)はセロリの親友さんも頻度は低いが利用していたので、ハンドルネームでも通じたのだが、ハンドルネームで呼ぶこともほぼなかった。


犯罪心理学では、コントロール対象を代名詞で呼ぶことは良くあるらしい。
彼や、彼女、旦那等だ。

親しくない間柄では、自分との関係性を簡単に説明できる便利な言葉だが、頑なにそれに固執し続けるのはやはりボダ特有の思考の現れではないかと思う。

ボダは、“素敵な恋人”“ステータスのある旦那”“便利な友達”という“レッテル”や“肩書き”“社会的立場”でしか他者を認識できないからだ。


近い存在で面識もあるのに、終始この呼び方だったので、私はうっすらとジレンマのようなものを抱えていたのだが、名前を呼ぶということは、
“個を認識する”と言うことだ。

ソドムの市という映画があるのだが、究極の主従関係を当時の政治のあり方を暗に批判する喜劇のごとく表現した稀な作品だ。ストーリーだけで言えば悲劇でしかないが。
簡単に言えば、人を選ぶ映画なので安易におすすめはできない。
時代背景や監督の末路は、さておき、ストーリーを簡潔に説明しよう。

街で拉致した数名の少年少女を、館に監禁し性的虐待を繰り返し拷問したあげく目玉をえぐったりする子供には決して見せたくない映画なのだ。
その中で、奴隷達はもちろん意思など持つことは許されず名前も個性をも殺されるのだ。
本来あってなら無いことだが、究極のサディズムはここまで行き着くのだと私は定義している。
無論、肯定しているわけでも否定しているわけでもないので、悪しからず。
そして、名前を呼ばれ個を取り戻した奴隷には罰が与えられるのだ。

常人には到底理解できない話だろう。

作中の言葉を借りるならば、「この高尚な趣味がわからんのか」あたりか。
それほどまでに、名前が重要視されることが理解頂ければそれで十分だ。

名前とは命を縛るものだからだ。

例えば貴方の名前は何だろうか。
そこには親御さんの願いがたくされてはいないだろうか。
貴方が親でなくても、自分のペットに名前をつけたりしたことはあるだろう。
猫のみゃーちゃんといった具合に。
名前がなければ呼ぶときに不便だろう。
猫ですら自分の名前を呼ばれればこちらに来るのだ。
私たちは私たちの思っている以上に名前に縛られている。
だが、同時に助けられてもいるので相互補助で対等であるとも言えるのだが。

だが、ボダにとっては、名前など何の価値もない。
搾取できれば誰でもいいのだ。
従って、彼らしかいない世界では、私達人間の名前等呼ぶに値しないのだ。

想像してみてほしい。


今日買った缶コーヒーに名前をつけた人は挙手をお願いする。
では、今日乗った電車の座席は?

私達にとって代わりが利くもの、または、命なきものに対して名前はつけないだろう。
使えればいいのだから。

ちなみに、私の洗濯機はシロロンと言う。初めての独り暮らしが嬉しすぎて勢いで白いからつけた。かなり長い付き合いになるが未だに現役である。たまに、グレて、この世のものとは思えないゴジラみたいな振動と共に非常事態のR2-D2みたいな声をあげるのだが、シロロン!ファイト!いつもありがとうね!というと、嘘のようにおとなしくなるのだ。反抗期か発情期か知らないが、それをしないと何時間でも発狂している。長い付き合いの家電には愛着がわくものだ。
これはさらに余談だが、ルンバにあだ名つけてる人絶対いると思うんだよね(笑)。だってかわいいもん(笑)。
そしてさらに余談だが、このルンバが生まれ来る前に、フィフスエレメントと言う映画で、お掃除ロボットが出てくるのだがルンバの祖先か?と思うほど酷似していて、それもまた可愛い。掃除が終わると“ああ~良い仕事した~”って感じで律儀に帰っていくんだけどそれを見たいがために部屋中に何度でもベビースターラーメンをぶちまける自信がある(笑)。そのくらい可愛い(笑)。
そんなこと言ったら、ゾーグみたいでやだからわざとなんかしないけど。しないけど。しないけど、多分三回くらいはする(笑)。
と、まあお掃除ロボに限った話ではないが、自分にとって近しいものや、大切なものには例え機械であろうと親近感がわくだろう。
それが、替えがきかなかったり高価だったりすればなおさら。
だが、逆にありふれたものであったり、安価なものであればあるほど愛着から遠ざかる。

この 可愛い という主観も私達が人間だからこそできることであり、ボダにはできない。
なにかしら、オプションでついてくるものがあるときのみ、彼等は良い顔をするだろうが、自らの心が腐りきっているのでオーディエンスがいなければ絶対にしないだろう。

つまり、名前を呼ばないと言うことは、使い捨てであり続けろ という隠されたメッセージなのである。
高性能ボダは本人を前にしてそんなヘマはしないだろうが、その場にいない第三者の呼び方によく耳を済ませてみてほしい。

セロリは、私と面と向かって話すときは私の名前をよく呼んだ。だが、その場にいない第三者のことは、“あの人”と呼ぶことが多かった。“あの女”や“あれ”ともよく言っていた。

そのため話している最中に、

・誰の話なのか
・どこから話の主人公が変わったのか
・なぜ無関係の他人がこの流れで出てくるのか

となってしまう事は日常茶飯事だった。

基本的に適当に相づちを打つのみだったが(笑)。
なので、私のいないところで私が“あの人”で呼ばれていることは想像に固くなかったが、セロリ自身は上手く騙せたと思っていたのだろう。
さっきまで神のごとく崇めていた知人が、数時間後には、殺人的に憎い!となることも頻繁だったため、騙されていようが、そんなことは更々興味がなかったのだが。

ちなみに、私の母は最後まで私を本名で呼ぶことはなかった。
本名とは、かけ離れた何の脈絡もないあだ名で呼び続けた。
例えば、まりこならばちーちゃん。太郎ならばボブ君と言う具合だ。
姉のことは、まりこならばまりちゃん。太郎ならばタロ君というような関連性のある呼び方だったが。



蛇足でしかないのだが、ソドムの市は、個人的には偉作だと思っている。
遺作ではなく、偉作だ。
誤解しないでいただきたいのだが、暴力や監禁を決して肯定しているわけではない。むしろ、私の最も嫌いなものだ。

だが、
・当時のあの時代に監督はおそらく遺作になることを前提であの作品に臨んでいる
・これは全ての表現者に言えることなのだが、作品の中にメッセージを残すのならばうまくやれよ。と言うことを身をもって証明してくれた

と言う点では、正に偉人だと思うのだ。

何事もうまくやらなければ、大いなるものに消されてしまう。ということだね。
しかし、失われたフィルムとは実在するのだろうか。個人的にはかなり気になる(笑)。いつか億万長者になったら幾らとしてでもオリジナルをこの手にしたいものだ。
呪われそうだけどね(笑)。俺が日本海沿岸にデュロデュロになってうち上がっていたら、マルキ・ド・サド様の怨念のせいだと思ってください(笑)

話を戻そう。
作中の少年少女らは言うまでもなく奴隷である。
国や政治、固定概念に対し反撃も否定もせず、そのままを享受しつづける愚かな民衆のことを暗に示唆しているのであろうが、それを映画に秘めたその結果があれだ。
監督が無惨な躯に成り果てても誰もが当然と思うだろう。彼は一度に多くを敵に回しすぎたのだ。

ここでボダにつなげよう。
無理矢理と思われても仕方ないが、“このままボダの意のままに操られていればこうなりますよ”という警鐘のように私には感じられたのだ。
無論、彼が指摘したいのはボダなんかではないのかもしれないし、当時に境界性人格障害と言う病名も浸透してなんか無いだろう。
だが、見えない化け物を野放しにしていいのか?と、尋ねられている錯覚に陥るのだ。
化け物の定義は人によって異なる。彼が伝えたいことも、私の勝手な推測でしかない。それでも、私はこの作品は愚民や奴隷に微かな希望を残しているように思えるのだ。

“監督の映画のような死”までをひとつの作品とするならば、だが(笑)。


もし、ボダから逃げて余裕ができたり、少し興味が湧いたときにでも見てみれば良い。
勿論心のきれいな人や、今現在洗脳下にある方は絶対に見ないでほしい。

むしろ、ボダを忘れたいならコメディに限る。
レンタルショップ軒並みコメディコーナーを制覇する勢いで借りまくってみてほしい。一ヶ月後には、別人のような君たちに出会えるだろうよ。

何から見れば良いかわからない人には、とりあえず“ズーランダー”をおすすめしてみる。
これ、かなり古いのだが今でも通じる笑いが溢れている。
私のお気に入りでDVD も持っているのだが、本当に馬鹿馬鹿しくて本気でボダなんかどうでもよくなる(笑)。
この前の休日に見直してみたのだがついついエヌジーシーンまで見てしまった(笑)。


モデルがテーマの作品でそもそも色々おかしいのだが、役者の演技力や1画面ごとに切り取ってみてもオシャレなのでファッションに興味ある人にもおすすめできる。

良い年した大人が、本気でブリーフ脱ぎ会う競技をして、全力でファイトしたり。
良い年した大人が、パソコンの使い方もわからず、猿化するところとか。
良い年した大人が、一分前に親切丁寧に説明したことを真顔で聞き返したり。

突っ込みどころ満載なので是非おすすめしてみる(笑)。

どのシーンも好きなのだが、個人的にはエヌジーシーンがクセになる。
やっぱり演者側も恥ずかしいのね、と(笑)。

もう、ベン・スティラー君の顔見るだけでワラけるもん(笑)。
ズーランダーでは、デレクと言う名のアホの子主人公だが、ナイトミュージアムの警備員のがお馴染みかな?
イケメンが何アホなことやってんだって、ツッコミたくなるんですよ、本当に。

ちなみに、このノリが受け入れられた人は、“トロピックサンダー”もおすすめだ。騙されたと思って、ぜひ見て見てほしい。ちなみに、日本語版のがおすすめ(笑)。小枝ちゃ~んの言い方が最高。英語版だとそこまで笑えない謎である。私だけか?(笑)
確か日本では劇場公開されていなかったせいか、知名度が低いことが悔やまれるがこれもベン・スティラー君主演作品ではなかなかにヤバイ(笑)。
アイアンマンの中の人も、ミッションインポッシブルの人も出てるよ!

よくこんな豪華キャスト集めたな、とも思うがじわじわくる笑いのセンスが貴方の嫌なことを吹っ飛ばしてくれること間違いなし。ぜひ小枝ちゃ~んのように吹っ飛ばされちゃってください(笑)。




とまぁ、映画業界の回し者か?と、突然背中を槍でぶっ刺されても文句言えなさそうな閉め方にするつもりでしたが、ボダに対抗するには“純粋な笑い”と“適度な運動”が一番。

映画に助けてもらうのも悪くないよ。一時の現実逃避でも、積み重ねればボダを近寄らせない強力な武器になるので!
と言うか、こうしてボダの存在自体を笑い飛ばすのが一番の近道かも(笑)。

本日も一緒に笑いながらいきましょう(笑)