心のとげぬき。

境界性人格障害者の被害者のトラウマを減らしたいがためだけにブログをはじめてみました。

逃げちゃダメか?

○逃げちゃダメか?


逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメという、名台詞があるように、どうもこの国は“忍耐は美徳だ”と、強いられる風潮があるように思える。


確かに時と場合により、この考え方は必要だとは思う。

だが、相手が人格障害であるならば「逃げなきゃダメだ」と思うのだ。


恐らく、人の数だけ人格障害からの被害のパターンがあるだろう。

物理的に離れられない、精神的に洗脳され自我が潰され切っているなど。
それぞれだとは思うが、まず逃げてもいいのだと、自分を説得してみてほしい。

自分自身に、選択肢を与えてみてほしい。


私は母の葬式に出ることは絶対にない。
例え、70億が私にそれを強要しても絶対に葬式に参列することはない。

私の魂は私だけのものだからだ。

例え物理的に拘束され、式に参加させられたとしても、母を忍ぶことはないし、思い出すこともない。

昔は、母が家に帰ってこなかった数年間は私のせいだと思っていたし、その溝を埋めなければとも考えていた。

だが、少し考えても見てほしい。

どんな理由があったとしても、一度家族を捨てた者が何食わぬ顔で「もう稼げるようになったよね」と飄々と帰ってきていいはずがない。

それでも私は、家族の絆を取り戻さなければと無意味に必死だった。若すぎたのだ。

今の私であれば、ご飯も作らず家事も掃除もせず、気まぐれに怒鳴り散らし子供のように暴れまくる母を命あるものとして扱わなければならない理由はどこにもないと、諭すだろう。
当時の私自身に向けて、「全力で逃げなさい」と説得するだろう。
そんな生き物との絆を構築するよりも、貴方があなたらしく笑える世界にいきなさい。と言うだろう。

そして、後ろめたく感じる必要などないのだと。

逃げてもいいのだと。





それぞれとはいったが、それゆえに正解などない。
貴方が決めることだからだ。

結婚して子供がてきてからその本性を表すものもいるだろう。


完全に逃げ道を塞ぎきったあとに貴方の心を殺そうとするものもいるだろう。


だからこそ、貴方だけは貴方の味方になってあげてください。

世界の全てが貴方を突き放しているように感じたからこそ、貴方だけは貴方の側に寄り添ってあげてください。

逃げることは甘えではありません。

逃げることは甘えでも何でもありません。


逃げることはいきることです。

人格障害と関与している場合のみですが(笑)

逆にどうあがいても逃げ切れないものは自分自身なんですよ。
どこまでいっても、切り離せないのは生きようとする人間の意思と自我です。

ならば、いっそ堂々と生き延びるために背を向けるのは時として素晴らしく潔く、だからこそ美しいと思うのです。

私もかつては、いけないことをしているような謎の罪悪感に苛まれていました。
ですが、ほんの少し視点を変えてみてください。

斜め上からじーっと見るでもよし、一歩引いてローアングルからチラッと見るでもよし。

きっと、全く別の貴方が見えてくるはずです。

私は逃げだした私を誇りに思っています。


母やセロリを振り返らずに走る私を全力で肯定しています。

罪悪感を感じるならば、それも追い付けない早さで走ってしまえばいいんですよ。

逃げていいんですよ。

貴方自信が貴方と向き合うことをやめさえしなければ、貴方は他の者から逃げてもいいのですよ。

だってそうでしょう?
逃げるってことは生き続ける覚悟をしたということなのだから。

命の限りに走り続けると誓ったからこそ、そこから脱出できたのだから。

全ての責任を自分でしょいこんだからこそ、後ろ指差されても気になどならないのでしょう。

私は、死んだように生かされ続けるよりも、死を受け入れ死と共に生きている今の方がよほど楽です。

本当の地獄は、意思を剥奪されそれでもなお生かされ続けることなのだと私は思います。


本の少し、楽になってもいいんですよ。

そのうち、風潮が変わって「逃げ切ったお前かっこいいじゃん!」って、世界の方が貴方に拍手を送りますから。

ほんの少し先の未来に、歩き出すってだけです。

今から逃げるのではなく、未来に走り出すってだけです。


だって、世間体や世論は貴方を守ってくれないでしょ?

世間の目が冷ややかだからこそ、貴方は貴方の背中をそっと押してあげなくちゃ(笑)

貴方をいじめる人格障害から、逃げてもいいんですよ。