心のとげぬき。

境界性人格障害者の被害者のトラウマを減らしたいがためだけにブログをはじめてみました。

母が私にしてくれたこと

○母が私にしてくれたこ


セロリのことをかけばかくほど、母について思い出すことが増えていく。
それもそのはずで、考え方や話し方、表情がよく似ていたから連想するなという方が無理がある。

小学生に成り立ての頃、母が運転する車から突然引きずり出されて、ドアにしがみついたがそれでも大人の力だったので呆気なく車外に出され、そのまま「燃えるごみの日だから!ここに!捨ててくね!じゃあね!バイバイ!」とやられたのを思い出した。


母からすれば教育なのかもしれない。

だが、大人になった今だから言えるが、まだ小学生の子供を遠い知らない町に置き去りにして平然としてられるだろうか。まともな人間ならできない。

その日は父が休みだったのか、探して迎えに来てくれ数時間後に帰還できたが、今でも疑問だ。

なぜ母がいきなりそんなことをしたのか、どうして全力で降りたくないといっている子供をゴミ捨て場におきざりにしたのか?

迷子になってのたれじんだり、何らかの事件に巻き込まれたりすれば、自分が直接殺したことにはならないから、意地でも手を汚さずに処分したかったのだろうな、と。

理由がなんであれこの奇怪な行動も今なら“ボダ”だから、で片付けられるが、その辺りから私の中の母にたいしてのイメージは“人の形をした何か”となっていった。

父も父で何も言わないし、“なぜこうなったのか?”を聞いても父は「誰も悪くない」と、言い聞かせるように言うだけだった。
まるで、自分さえよければそれでいいとでもいうような顔だった。
それでも、父が来なければ私は知らない町で知らない人に拐われていたかもしれないし、長期間保護されなかったら物理的に飢えて死んでたかもしれないし、とにかく良いことはなかっただろう。

母と1つ屋根の下で暮らさなければならないのであれば、あの時死んだ方がまだましだったのかもしれないが(笑)

だから、選べる今は絶対にあの家の生き物とは接触しない。

電車の乗りかたも余り分かっていない年齢なのに、電車で何十分の離れた場所に置き去りというのは、本当に賢くないやり方だ。

母に「産むつもりなかった」と、何度もガチのトーンで言われた私だが、それに対して「じゃあなんで産んだの?」と聞けば「こうして、娘は私をいじめるのよ!何年も前のことをまだネチネチと持ち出しては、私を傷つけるようなことばかりいうのよ!もうすぎたことなのに!」と、親戚や近所に触れ回る始末。
簡単に言えば、親戚のおばちゃんも、母と接触し続けたあとはめちゃくちゃ可愛がってくれていたのに、別人のように豹変してしまうほどだった。
「あら~美人になったのね~あがっていきなさい、ゆっくりしていってね~」と会うたびに冗談で言ってくれていた人も、「あんたみたいな親不孝はとっととかえれ。長居すんじゃない。バカみたいなつらしてんじゃないよ」といった具合だ。

私はメンタルが強いので、冷静に受け止められたが、痴呆の可能性もあるしあまり接触しないようにすればよいか、とだけ判断したが、なぜか母が異常にニコニコしていたのを思い出した。
普通は、自分の娘がけなされていたら助け船を出したり、相手を諭したり嗜めたり何かしらするだろう。
だが、子供みたいにひたすらニコニコしていて、親戚のおばちゃんが私を罵るのを楽しそうに眺めているだけだった。

この顔がセロリによく似ていた。

別の記事を書いている途中、双子のようにすごく似ていて同じ顔で再現されたのだ。

セロリも、第三者がいるときにセロリの親友のことを本人の前で「お前はここがダメなんだ」「これだからお前はガキなんだ」とか言っていた。突っ込みと区別するのが難しいが、よく頭もはたいていた。
私は半々で二人のフォローをしていたが、基本的にセロリは、私がセロリに同意するときにものすごい子供のような笑顔だったのを思いだした。

そもそも、自分の親友を人前でけなす心理がわからないので、同意できるところは同意し、できない場所はしなかっただけだが、セロリの親友とセロリと私とで三人で遊んだときに、セロリが一度も親友のフォローをしなかったのを思いだした。

母が私に残してくれたものは、何がなんでも境界性からは逃げなさい という命よりも大切な教訓だったように思う。

お袋の味なんて1つも知らない私だが、境界性をかぎ分ける嗅覚をくれたことは死ぬほど感謝している。

多分、セロリの親友はセロリが異常者であることに気がつけていない。
今はもう関係もないので忠告のしようもないが、知らないままで巻き込まれ続けることほど過酷で残酷なこともないと思うのだ。
さすがに何年も前のことなので、洗脳も溶けて平和に距離をおけていると思いたいが。

セロリは今もこうして周囲をうまく利用して、タゲをさらに苦しめているのだろう。
私はセロリと初対面であったときから本能的に“深くかかわってはいけない”と思ったし、徐々に“二人以上でも会わない方がいい”も感じていた。
漠然と、カンのようなものなので説明がしづらいが、なぜかセロリとは大人数では会わない方が身のためだと感じていた。
それなのに、セロリはしょっちゅう「私の仲間に会ってください」「コミュニティーの皆はうたたねさんに会えるのを待ってくれているんですよ」と、会うたびに毎回言っていた。
私は心底執念深い生き物だと距離を引いていたし、断っても断っても誘ってくるので本当に脳みそが腐っているのではないか?と、悩んだ時期もあった。
そのコミュニティーに、すごく美人な女性がいたのだが、その人の彼氏の性格と年収職業、好きなブランドや歌手、出没地域、付き合って何年なのか結婚前提なのか、精神疾患やナイーブな話、などなどを毎回自慢げに話していたので、私の情報がそのコミュニティーにだだもれなのは想像がついたし、極力情報をもらさないようにはしていたが、そんなセロリの手あかのつきまくった集団とは一秒だっていたくないというのが素直な気持ちだった。
他にその美人な女性意外にも、別の男性の情報も色々話していたので、時間の無駄だと思い全て断り続けた。

山登りに誘われたときは流石に大爆笑したが(笑)
なんで、はじめて会うやつらと山登りなんだよ?ガイキチなのか?ってね(笑)
それぞれ体力に差があるだろうし、何の脈絡もなしに山登りだったので、本当に驚いた。

ゴキホイ自体は、山登りなんかとは全く無関係のSNSだし、セロリがいたコミュニティーはどちらかといえば陰キャばかりなイメージのコミュニティーだったので、心底驚いた。陰キャというのもあれだが、明らかにガリガリで体力もなさそうで散歩程度でへばってしまいそうな人たちばかりだったので、まず基礎体力から見直せばいいのになあと、他人事ながらに思った。

よく山登りにいったはいいが途中で脱落者が出たり、予定が狂ったりと言う話は私の周りだけでなくちらほら聞く。友達が、職場の女の子がひ弱すぎて途中で動けなくなったとか言ってたのを聞いて、友情にヒビが入らなきゃいいな(笑)と思ったし、おぶってやれや(笑)とかも思った。そもそも、一番低い体力の人にあわせたスケジューリングにしてやれと言ったのも思い出した。

登山って確かに色々あって、軽いハイキングから本格的に装備が必須なものまで一言ではくくれないかもしれない。
けど、そもそも初参加の私を誘うにはハードルが高すぎるのでは?と、本当に笑ってしまった。
明らかにボーリングとかバーベキューとか、ビアガーデンとかさ、もっとお気軽にお互いを知るいい場所というものがあると私は思った。そういう集まりならまだましも、無関係のはじめての人を一人だけ招くには、聞いたことない方法だなと。

なので、この時点でセロリに決定権はないコミュニティーなんだな、とはうっすら予測がついた。
それでも、洗脳し始めなのかもしれないし、私がそのコミュニティーに参加することによりセロリのボダスイッチが入る可能性があったので、完全にお断りスタイルを貫き続けた。


おそらく、このコミュニティーの人間は境界性を知らないか、セロリが本気を出していないだけ(笑)なのだと思う。
最近ゴキホイを見たらセロリが、そのコミュニティーの誰とも接触していなかったので解散した可能性もあるが、誰かがセロリの本性に気がついた可能性もある。

何にしても、私は極めて初期にセロリが“関わっちゃダメなやつ”と見抜けて本当に良かった。
コミュニティーの人間には、もっと大変な傷をおった人もいたかもしれないのだから。もとから、あまり精神状態のよくない人々の集まりだとセロリ自信も言っていた。
そういう人間達には、想像を絶する甚大な被害を被る場合もある。

ゴキホイをやめたくなくて、セロリの機嫌を損ねないように、悪評をばらまかれないように、と尽力した私が本当にバカらしく思える。
辞めた今の方が、周りの人間にも恵まれているし、精神に相当なゆとりができた。
もっと早くに早くゴキホイを捨てていればよかった。

誰ともからまずに一人でまだゴキホイを続けているセロリを前に一度見たが、境界性は遅かれ早かれ孤立するのだなあと。

母も若いうちはまだつるむ人間がいたが、今では行きつけの店に“お一人様お断り”という、張り紙まで張られる始末。
年と共に確実に孤立する生き物、それが境界性だ。

境界性の真実を教えてくれた母には、死ぬまで感謝だ。