心のとげぬき。

境界性人格障害者の被害者のトラウマを減らしたいがためだけにブログをはじめてみました。

○母と正直な気持ち

○母と正直な気持ち


母の日にカーネーションを送るのもいいけれど、私は母に“憎しみのない世界”を贈りたい





一番最初に貴方を愛してくれた人は誰でしたか?


生まれたときに一番最初に笑顔をくれた人は誰でしたか?


貴方がこの世界で一番なくしてはならないと思えるのは誰でしたか?



母の世界には母しかいない。


そこには、愛も憎しみですら存在しない世界なのかもしれない。

私の目が開かない内は、それでよかった。
でも今は、すべての感覚が研ぎ澄まされている。
愛も憎しみも、そんなにかわりがないのね。




母に“憎しみのない世界”を贈ったとしても、母はその世界に触れることすらできない。

完全に“自己”しか存在しえないからだ。

そこは、愛も憎しみも存在すら赦されず、永遠に孤独を味わい続けるさながら生き地獄だ。

己以外の魂を弄んだ代償として、釣り合いがとれているかは私には分からない。

愛した人の温度も、愛してくれた人の歌声もそこにはない。

それだけの世界で、永遠に生き続ける。

どれだけ水を注いでも、ひび割れたグラスでは満たされることはない。

現段階の人類では、新しくグラスを作り直すことしかできない。

その方が確実でコスパがよい。



神様、もしいるのなら。

全ての人格障害が、本当の意味で愛に満ち足りた世界に生まれてくることはできないのでしょうか。

愛を奪い合う世界ではなく、与えあう世界を作り直すことはもうできませんか。


いなくても構いません。

神様、決して交わることのない両者をなぜこの舞台に配置したのですか?

必要悪であるならば、それは誰の視点ですか?




カーネーションは、いつか枯れます。
さらさらと、砂になります。
確かに約束された終わりがそこにあるから、美しかったのでしょう。


私はかれない。

醜くても構わない。

美しくなくていい。

捨て身の覚悟だ。


人類の愛とは比較にならない無償の愛を受けとることのできなかった私の覚悟だ。

数ではなく、質の愛を与えられなかった私の意思だ。

この世で最も尊く、純粋な愛を母からもらえなかったからこそ、母に与えたいと思った私の覚悟だ。


例え全人類が私を憎んでも、私は私を愛そう。

それが、私を愛することができなかった母との約束だ。



唯一の約束だ。