ボダのサダメ
○ボダのサダメ
この世には暗黙のルールがある。
愛されたいなら愛する。
笑顔を向ければ笑顔がかえってくる。
敵意をむき出しにすれば、敵意が帰ってくるように。
これは、100階建てのビルから飛び降りたら死ぬのと同じくらい当然のことなんです。
ゴキブリにゴキジェットプロをかければ、数十秒でお亡くなりになるのと同じですね。
ご飯を食べるときに、お箸を使うのと同じように、私達は思いを伝えるとき言葉を使います。
あるいは、目線やボディランゲージや、文字など様々な表現方法で、愛を伝えます。
ですが、ボダは愛されたいがためにウソをつきます。
ボダは、相手を憎みながらも、自分だけは愛してほしいと思いながら、偽りの愛を語ります。
言語を用い、体全身で表現したり、SNSならば文字を使いありとあらゆるツールを駆使し、この世界の法則をねじ曲げようと躍起にあがきます。
その、因果が集中豪雨のように降り注ぎ、自然に孤立したり、回避されたり、無視や疎遠にされたとしても、ボダはそれをやめようとはしません。
人の命をもてあそび、なおかつこの世界の法則をも変えようとするので、これほどまでにない仕打ちを受けるのです。
幸せそうなボダって、見たことありません。
被害者blogを見ても、何年か後には落ちぶれているし、私がであったセロリもおごってもらったときや、何かをもらったときだけは、幸せそうにしますが、数時間もすれば鬼の形相か無表情で無言になるかでした。
ボダは幸せにはなれない仕組みです。
もしかすると、神様が頑張っている人間にメッセージを送るために無理矢理作り出された生き物なのかもしれません。
例えば、ゴキブリが出たときは、日頃の掃除や戸締まりを怠っていなかったか、確認もかねて身を引き締めることができますよね。気分が悪くても、何かしら入る隙があったのでは?と、振り替えるきっかけにはもってこいです。
ボダも同じです。
日頃周りに甘えきってないかな。
努力を怠っていないかな。
自分に優しくできているかな。
そういったものを、考え直す一種の天災のようなものなのかもしれません。
なので、ボダは誰からも必要とされないし、興味も持たれません。
うんこです。
道に犬の糞が落ちていてもちょっと避けて歩くでしょ。
それと同じです。
ボダは誰にも興味がないので、誰からも興味を持たれません。
ボダは必要であれば誰でもいいので、ペットボトルのキャップのような存在です。
私が発掘したセロリも、さしずめ焼き鳥の串のような、割り箸についてくる爪楊枝のような存在です。
誰かに迷惑をかけてさえいなければ、特に。
友達であれば、元気かな?昇給できるといいな、とか、色々考えます。
セロリは、生活保護で他の人類の生活圧迫しなきゃいーんじゃね?くらいです。多分道ですれ違っても、なんだこれ?で、終了です。
相手がわめき散らしても、知らない人だなあ、知らないゴキブリだなあと、思うくらいでしょうか。
特になんとも。
当時から、“不幸だ”とばかり繰り返していましたし、セロリが幸せになるイメージがわきません。
これは、どのボダにも当てはまるのではないでしょうか。
どのボダも幸せにはなれない。
関わった人間なら身をもってわかるとは思いますが、境界性でありつづけるということは、幸せにはなれないということなんでしょうと最近の私は思います。
そして、それが境界性が周りに迷惑をかけ続けるサダメの代償なんでしょうね。