心のとげぬき。

境界性人格障害者の被害者のトラウマを減らしたいがためだけにブログをはじめてみました。

セロリの反戦意識

○セロリの反戦意識


私は映画館ではあまり、邦画は見ない。
スケール的にも大画面でなくても十分楽しめるように作られていると感じるし、邦画や日本アニメは家でくつろぎながら何度も見た方が発見があるので、邦画は断然家派なのだ。

簡単に言うと私は
洋画=劇場
邦画=家派ということだ。

セロリと食事をしているときに、映画を見に行こうとなったのだがその時にちょうど「風立ちぬ」がやっていた。
私はそもそも邦画はあまり見ないし、劇場にいくほどでもないなと思ったので、「いけたらいくか」程度にしか思わなかった。
というか、その頃はもうセロリの本性が出まくっていたので、あまり関わりたくなかった。
ただでさえ、暗い顔で過去の暗い話を続けるので、映画くらいは底抜けに明るいものを見たかったのもある。

だから、正直に「戦争ものはテンション下がるからやだ」といったのだが、これにセロリは完全にぶちギレた。

「過去の過ちを繰り返さないためにも、見なくてはならないんですよ!忘れてはならないんです!」
「日本の文化なんだから目を背けてはいけないと思います‼日本人のサダメなんですよ!」
「なんとしてでも見なければならないんです!うたたねさんは現実から逃げているんですよ!もっと向き合ってください」
とか、人格否定か?と思えることまで言われたし、帰りの改札でも言われたし、その後のメールでも言われたレベルだ。
それこそ、別人のごとく豹変して激昂してきたので、食事している場所が個室で本当によかったと思った。

あの頃は、確かにそれも一理あるとは思ったものの最近のジブリに魅力と勢いを感じなくなったせいもあり、やはり結果としてセロリと映画にいくことはなかった。

戦争を繰り返してはいけない気持ちは勿論わかるが、それを強要するから戦争が始まるんだろうに。
なんて、酷く冷めた気持ちになったのも事実だ。
こんなことで、ぶちギレるような人とは何しても楽しめないし、戦争がダメだと豪語するならばまず、周囲の人間をこき下ろしたり、悪評を吹聴したり、虐待話を自慢げに語るのをやめるだけでも日本は平和になるでしょうね。
少なくともセロリの顔を2度と見ずにすんでいる今は、私の心は死ぬほど平和です(笑)


映画にいかなかったのはセロリがなぜか、「洋画だと字幕が見れない」といっていたのもある。
おそらく、眼鏡を私にかってほしかったのだろうが、近眼らしく遠くのものがよく見えないらしい。
私は視力が0.001くらいしかなく、ほぼ裸眼では外出できない身なのですぐにセロリがウソを付いているのだとわかった。
眼鏡かコンタクトなしでは歩けない怖さを知っているので、そこまでして眼鏡ほしいか?てめえでかえよ、と思ったのもある。

最前列でも文字が見えないと言っていたので、もしかすると映画館にいったことのない可能性もあるが(笑)
驚いて「日常生活どうしてるの?信号とか、電車の案内とか。いつも裸眼だし薄型のコンタクトなの?」と聞けば「あー、あれは見えるんですよ。コンタクトも眼鏡もしませんね」と言っていた。

距離にもよるのだろうが、電車の広告やカラオケで表示される文字も読めていたのでセロリは救いようなない生き物だ。
街中でやっていた展覧会の展示品や作品に付いている細かい文字の文章もはっきりと見えていたのを覚えている。

眼鏡を買う金がないとかいっていたが、弱視や近眼の人にとってはかなり命取りになるので、もしそれが本当ならば回りにも迷惑をかけているのだろうな、と映画について話しただけでも思ったのだ。
0.01以下の人はわかると思うが、裸眼だと足元もろくに見えないし、向こう側の信号も色がなければ絶対見えないだろう。ちょっとした段差でも躓くし、ほぼほぼ色か音で判断するしかないと思う。

映画の文字が見れないなら普段からなんかしらの視力を補助する道具がないとおかしい、と言おうと思ったが呆れてものも言えなかった。ぶちギレられたりしたら、たまったものでもないと思ったし、適当に勢いで論破したつもりになられてもこちらのストレスがたまるので。

風立ちぬが見たいならみたいと言えばいいのに、「洋画だと文字が見えない」といって、ひたすら自分がみたい作品しか見ようとしないセロリは本当に子供のようで愛想がつきた。
ましてや、自分がみたいから相手も見たいはず、見なければおかしい、日本人の義務だ!とまで言い切る。
これで自分がみたい作品ならば洋画でも字幕が見えるような都合のいい目になるんだろうなあ。
ジブリもそんなに見なければ、と思って作ってないだろうよ。確かにキャッチコピーは“生きねば”だった気もしなくもないが、“見ねば”ってほどでもないだろうよ。
ジブリってやっぱり家でマッタリ見るのが良いと思う。哲学的要素や、宗教、時代、文科、キャラクターの個性やポジション、メタファーなど、何度も見て読み解いたり、見る年代によって発見が違ったり、自分の年齢によっても感じ方がかわってくるからこそ魅力的なんだと思うし。
一度映画館で見て、皆がみてるから見た、ってしてしまうのはとても惜しいと思う。最近は勢いがないとは言ったけれど、その分深みと苦味に特化したって言えばいいのかな。ジブリは嫌いじゃないけど、もののけ姫ならスクリーンで見たいなあ(笑)


かいていて思い出したが、セロリはこの頃になると息をするように自然にウソをつくようになっていた。

よく、「電車詳しいので乗り換えとかなんでも答えられます。何でも聞いてください」と言っていたので、聞いたことがあった。
セロリと遊んだ駅が行ったことがない場所だったので帰り際、「この路線なら○○駅にいけるかな?」ときいたらあっさり「いけますよ」と言われたので、いつも自信満々に言っていたのもあり信用した。
そしたら、当たり前のようにつかなくて、一度降りて駅員さんに聞けば「別の路線ですね、切符は買い直しです」と言われたので、時間とお金をドブに捨てた。
最初に乗る前に確認すればよかったのだが、改札前で別れるのにそのあと駅員さんに聞くのもセロリの前だと失礼になるだろうなと思ってやらなかったのだが、何よりもどの路線も全部暗記している。とまで毎回言っていたので信じきっていた私が悪かったのだと思い、それからはことごとくセロリの言動一つ一つを信じなくなりました(笑)

本当に過言ではなく、セロリがいない今の私の生活は平和そのものです。
反戦意識がなんだろうが、日頃突然激昂する人間が口にしていい発言ではないでしょうね。
日頃の行いって本当に大事ですね。

セロリのいない今の日々に本当に感謝です(笑)