覚悟の深さ
○覚悟の深さ
ふと。
なんでこんなことしてるんだろう、と思うときがある。
問いただすまでもないのだが。
ボダに傷つけられたひとたちを救うのに、私の命を削っても何一つおしくないから。
それどころか、このまま何もせず死んでいくことの方がよほど悲しいことなのだと私は知っているからだ。
ボダは自分が生き延びるためなら、周りの人の心を殺してもなんとも思わない。
私は、被害者を生かすためならば、私の心を殺すことさえも厭わない。
真逆の覚悟があるから。
ボダとは、完全に反対方向のエネルギーに恵まれているからだと。
君がボダに憎いと100言われたなら、私は君に愛していると1000回伝えよう。
ボダに被害者が1000ぼこぼこにされたなら、私は被害者を10000万回抱き締めよう。
本当に傷ついたものを救いたいと思うときに、人は自分がどうなろうと構わないと思えるものだから。
だから、例えこの世界の全てのボダが私に憎しみをぶつけたとしても私は涼しい顔をしていられるのでしょう。
仮に、億万が一にボダが私を物理的にも精神的にも抹殺できたとしても、私の意思を次ぐものが現れるでしょうね。
すべての
いじめっこ=ボダ
とは言い切れないけれど、やってることは限りなく酷似してるんですよね。
なんかしらの人格障害をかかえてなければ、人を死ににおいやることなどできはしないのだから。
ここ数年でやっと、表面化しているけれど、自殺したものがかえってくるわけでもなく、加害者はのうのうと暮らし続けるんですよね。
マスコミさんが嫌いな訳じゃないけど、いじめという言葉を使うのはそろそろやめ時なんでしょうね。
認めたくないのもわかります。
子供が子供を殺すなんて、本来あってはならないことだから。
私は、いじめという単語を素直に“虐殺”“拷問”と言い換えてもいいと思います。
“いじめを苦に自殺した○○中学の~”
よりかは、
“拷問され自殺した○○中学の~”
といった方が、すっきりしませんか?
なんで、そんなぬるい単語で隠そうとするのですか?
それが物理的であれ精神的なものであれ、同じことでしょう。
私は“一人が百人を殺す”より“百人で一人を殺す”方がよほど業が深いと思います。
命の重さは皆同じですが、殺す側の百人が、“俺だけのせいじゃない”という逃げ道を作ってしまうことこそが、罪の深さを産み出すのだと思います。
危害を加えた本人達の意思に関わらず、罪悪感は潜在意識となりより大きな結果となり帰ってくるでしょうね。
五人で一人を虐殺したのなら、五人を殺しているのと何ら代わりはないと私は思うのです。
殺す側が、一発ずつ殴ったのだとしても、殺される側は五発殴られています。
殺される側からすれば、手を挙げた五人は等しく平等に罪深いからです。
こんな当たり前の事すら曖昧にしてしまうから集団の殺意はより罪が増すのです。
因果を読み解けないように封じてしまうだけでなく、罪の擦り付けあいも業が深まる要因のひとつだと私は考えます。
ボダが必ず標的を自殺に追いやるとは言いませんが、程度の差こそあれ心を殺していることにかわりはありません。
むしろ、その後の被害者の生きづらさを思えば死んだ方がマシだと思う方がいてもおかしくはありません。
何も信じられず、誰とも心を通わせられず、いつも何かに怯えながら生きなくてはならないのであれば、それは生き地獄でしょうから。
だから私はこうしてボダの存在を広めたり、被害者に寄り添い続けるのでしょう。
ボダがいる限り、被害者は増え続けるのだから。
でも、被害者の皆さん。安心してね。
ボダが一人いたら犠牲者は一人で収まるわけがないのはよくご存知よね。
ボダ一人に付き何人、何十人の人間が苦しみ耐え抜いていることを、よく知っていますよね。
貴方は誰よりもわかっているはず。
だから、世界がボダを相手にしなくなる日も近いのよ。
世界中からボダが愛想をつかされる日も必ず来るのよ。
ボダは自分で自分の首を絞めているのよ。
一人でも多くの人間から愛されたいがために、一人でも多くの人間から愛を奪い心を殺して、逃げ出されてそれでもなおそれを続けて、自分で自分の悪行を広めているのに気がつけてないのよ。
自分で自分の醜悪さを広め続けているのに、やめることすらできないのよ。
愛されたいなら、愛すればよいという単純な考えすら持たない、いや、持てない生き物なのだから。
確かに、あちら側に進化するもの達も出てくるでしょう。
でもその度に、こちらも自衛手段を更に強化していけば恐れることは何もないのだから。
そして、人間で有る限り、柔軟な心を持つ限りそれは可能なのだから。
自身をもってね。
自信をもってね。
覚悟と共に。