心のとげぬき。

境界性人格障害者の被害者のトラウマを減らしたいがためだけにブログをはじめてみました。

ボ~ダボ~ダボダ♪

○ボ~ダボ~ダボダ♪


ボ~ダボ~ダボダ悪魔の子~♪
暗い闇からやってきた~♪
ボダボダボダ異常な子~♪
真っ黒お腹の女の子~♪


ぽにょのイメージ低下になりかねないので、黙りますね(笑)


でもこういう感じで、子供にも分かりやすく伝えていかないといけない段階に来ているのではないかと思いますね。

駅や町で、いつもなにもない場所に怒鳴っているおじさんや、誰もいないのにニコニコ会話してるおばさんとか、そういうのと同じで「関わってはいけない」と子供の頃から教え込んでいかないといけないんですよ。

むしろ、日本って「困ってる子がいたら助けてあげてね」って教育に浸透しているとこがあるじゃないですか。
これ、大事。
人間相手にはとても大事。

てすが、一度優しさを見せては最後の生き物もいるということをやはり伝えていかないといけないのではないかと思います。




勿論、被害者さん安心してください。

貴方はなにも悪くありません。

“万引きするやつ”と“される店”どう考えても、“万引きするやつ”が、絶対に悪いですよね。
誰がどう見ても店側は何一つ悪くないですよね。


でも、店ならば“入店拒否”や、“出禁”にできますよね。


人と人との付き合いでは難しいですよね。

物理的なものではないですから。

なので、この際ネガティブな発言するやつは全部無視してはいかがでしょう(笑)

鬼!

と思った方、正しいです。
何故なら、ボダは鬼には近寄らないから。

それにほんの少し思い出してみてください。
貴方が尊敬する人は貴方にネガティブな話題を持って来ますか?
貴方の大好きな人は愚痴や悪口を言いますか?

一度もないということはないでしょうが、大抵のことにはめげずにいつもニコニコ穏やかではありませんか?
何か問題が浮上しても最善を尽くし、それをも笑い話にして周囲に笑顔を運び和ませていたりしませんか?

そしてそういう方こそ案外、本当の意味で暗い話題に興味を持たず、極めて初期段階でシャットアウトしてませんか?

なかなか育ちのいい友達がいて、ポジティブでいつも元気!って感じの友達がいたのですが、ボダについてきいてみたら「最初から相手にしない」ときっぱり言ってました。
まず、おかしいなと思ったら“周りにあの人どんな人?”って聞いてそれから時間をかけて信頼できるなら相手にするけど、愚痴や悪口を相談と言う形で持ってくるやつは、接近してきても無視するって宣言してましたね(笑)
なるほど、と心の底から納得しました。

そして輝いていましたね。
色々な問題に直面してもその度に吹っ飛ばしていたし、笑い話にかえていました。
勿論、そこに微塵も罪悪感なんかありませんでした。
「だってそういうやつって、絶対に後々トラブル生むもん」とも言ってました。

なので、逃げたあとに罪悪感が生じている方に朗報です(笑)

こういう人間もいるんですから、貴方が貴方を守るために多少冷たくしても誰も貴方を冷たい人とは思いませんよ。

優しさの使いどころは貴方が決めるんですから。
貴方の優しさをもらえなかった人が「あいつは冷たい」と言ったとしても、多くの人間はそんなこと気にしないし、わかる人にはわかりますから(笑)

貴方の優しさは、貴方に笑顔をくれる人に使えばいいんですよ。
いつも無表情で他人の批判や、こきおろしをしている生き物に使うほど余ってないはずですよ。

愛は無限大ですが、人格障害に与えるものではありません。
それは、彼らにとってもさらに彼等の悪意を増幅させる毒素のようなものに成り果てます。
話の通じる人間たちと、一緒にいることを選んでも良いんですよ。

無理して、“人格障害なんだから、優しくしないと”“ボダだから治療のためにも真摯に向き合わなければ”なんてことはないんですよ。

本来ならば、その張本人がやらなければならないことを貴方に全部丸投げしているだけなんですから。
人格障害であるならばなおさら、近寄ってはいけないんですよ。
治らないし、よくなるには本人の強い意思がまず先行されるからです。


ですが、ボダは「お前のせいで症状が悪化した」「お前が見放すから死にたくなった」など、平気で無責任な言葉を投げつけてきます。

聞かないで良いんですよ。
ボダの悪魔のような言葉に、耳を塞いでしまっても誰も貴方をせめませんよ。



貴方の心は貴方が使い方を決めるんですよ。
ボダの洗脳に負けないでください。
貴方の心は貴方のものです。

ボダが生まれるメカニズム

○ボダが生まれるメカニズム


これはあくまでも私見であり、私分析なのでお暇なときにでも見て欲しい。


被害者諸君は、なぜこんな化け物が野放しになっているのか?
考えた事はないだろうか?

私はある。

答えは簡単。

生まれてしまうからだ。

生まれると言えど、後々ボダとして確定してゆくといった方がいいかもしれない。
液体が個体になるようなイメージかもしれない。

毒液を凍らせても、毒の塊ができるだけだが。


私の母は境界性チェックにほぼ当てはまる。

知人の元プロの医者に見てもらったことがあるが、匙を投げた。
と言うか、今のうたたねさんなら関わらないのが一番だと言われた。
何年も前の話だから、当時の私なら不干渉が最適解だったので、その人の出した答えも頷ける。
ただ、物理的な攻撃力は老化と共に衰えるから安心して欲しい、とも言われた。

ここで、心理的暴力については触れなかったのはさすがプロというべきか(笑)。

ともかく、もう引退してしまったがその先生の言葉に救われたのだ。
資格もあったし、何よりもボダに対する知識もあった。色々な人間を見てきたそうで、あえてよかった人の一人だ。今でも感謝している。
薬も使用せず、対話療法だけで、私の母に対する恐怖感を消し去ってくれたので本気でプロだと思ったし、純粋にかっこいいと思った。

母を変えることはできない。と、先生は言っていた。
母の性格を変えることはできない、と。

その通りで、私が強く変わっていくのが何よりの最重要事項だった。
もしかすると、老人になって弱りきったときに反省して改心するかもしれないし、ずっとこのままかもしれない。
なら、自分が変わった方が確実だということは当時の私にもよく理解できた。

だから今の私がある。

相手を変えるよりも自分を変えるしかない。

ボダに洗脳されているのなら、洗脳されない自分へ。
ボダと共依存に陥っているのなら、自立した自分へ。
ボダに付きまとわれているのなら、断固拒絶できる自分へ。


おそらく、母の母も父も何らかの精神疾患を抱えていたのだろう。
これが、俗に言う世に溢れている負の連鎖だ。

だが、少し待って欲しい。
ならば、私はどうだろうか。
あの母の子だ。
大丈夫だろうか。

と、母と接触しているときは不安に思った時期があった。

先生に聴いたら、案外あっさり、大丈夫だと言われた。
うたたねさんが、精神疾患を抱えることはこれから先もないだろうと。
安心した顔で言っていた。
芸術として、表現することができるので大丈夫だと。
趣味に助けられたなぁと思った瞬間だが、よくよく考えてみれば母に趣味らしい趣味はなかった。

人と比べること
人より高い地位にいくこと
人より豊かであること
人を蹴落とすこと
人より高得点をとること


くらいだろうか。

私は一人でも多人数でもできる趣味なのでとても安心らしい。そもそも、蹴落とすようなものを趣味にしたくないしね(笑)

母はマラソンやノルマのあるマルチなど、数字で勝者が決まることを好んでいた。


私の本質もそうなのではないか、と怯えたときがあったのだ。
だが、先生の言葉通り全くの取り越し苦労だった。
なぜなら、オーディエンスがいなくても、私はその趣味を大切にし続けるからだ。

観客が居なければ踊れないのはダンサーではない。
踊らなければ死んでしまうからダンサーなのだ。

絵描きは何のために絵を描くのだろう。
衝動や情熱が絵の具のように溢れだして止まらないからその一瞬を絵画と言う奇跡に込めるのだろう。

音楽家は、何を思い楽譜に託すのか。
心が音となり溢れて溢れて少しでも捕まえておきたいから、消してしまわぬように音符に残して奏でるのでしょう。


つまり、母は誉められるために全ての行為をしているのだ。
私には理解できないし、私が私を認めているのでそんなものは重荷でしかない。
誉められるためではなく、私がそれをしたいからだ。

認められるためではなく、私がそれをしなければ落ち着かないからだ。

それが、大きな差なのではないだろか。
地位や名誉など必要ない。
私は私がやるべきことをする。
私はそう思って行動できるが母はできない。
常に打算と、利益のみで動く。あとは、拍手の数か。

だから私は私らしくいられるのだ。
もう怯えることもない。

だが、ならばなぜ境界性人格障害は生まれるのだろうか。

つまり、
遺伝子を持ったものが更に環境によりまるで選定されるかのように境界性へと進化を遂げるのではないか。

私には姉がいる。

先生に姉を会わせたことがないので正しくはわからないが、私の予測では
自己愛なのではないかと思っている。

この辺の線引きは非常に難しいが、
・取り巻きを作るものがボダ
・作らないものが自己愛

と、私は大体定義している。
つくれないボダもいるので、なんとも言えないが(笑)。
というか、被害者からすれば、ゴキブリの羽が茶色かろうが、触覚が長かろうがそんなことは永遠にどうでも良いのだ。
大事なのは、姉は暴力的で支配的、人として異常なほど致命的な二面性という欠陥をもっている と言う点だ。

だが、私は暴力的でもないし支配もしない。

この差はなんだろうか。

同じ母から生まれ、同じ家で育ち、同じように生きてきたはずなのに。


おそらく、友達だと思う。

私は無意識的に

この家はだめだ

と感じていたため同じ環境にあっても、

この家には愛がない。
なら、私は愛を与える人になろう。
愛を持つ人になろう。
そのためなら、多少傷ついても厭わない。
厳しくとも、正しい方へ導いてくれる人を探そう。

と、思った。

だが、姉は

この家には愛がない。
だから、私に愛をくれる人を探そう。
傷ついてボロボロになった可哀想な私に愛を注ぎ続けてくれる人を探そう。

となったのではないか。

実際に十代の頃の姉は出会い系や、二又サンマタは当たり前だった。
私はそんなこと人間がすべきことではないと思ったし、これからもしないだろう。
姉は男友達の方が多かったし、兄が欲しいとのたまっていた。
男を前にして別人のようになったし、話し方も笑い方も変わるのでまるで化け物だった。
家での姉を知れば皆長くは続かなかったが。
私はどちらかと言えば、同性の友達が多かった。
そして、実際に
これはだめなことだよ!
と、注意してくれる友達が多かった。

姉は、ノーを言わない弱気な友達ばかりを連れてきた。いかにも友達がいなさそうな陰キャや、育ちがよく性善説を根っこから信じているようなお人好しだ。自分の意思がなく、ハイやイイエが言えないようなはんぺんみたいな友達ばかりで、当時の私からすればおでん君みたいなイメージだった。おでんフレンズ。ふにゃふにゃの昆布みたいな。
こうして、取り巻きのような何かで自分を保っていたのだろう。

つまり、境界性人格障害

・遺伝子+若い頃の環境

で、産み出されるのではないだろうか。


私も友達に恵まれなければ姉のようになっていたかもしれないので、こんな仮説を叩き出している立場でもないのだが。

私が普通に生活できているのは

・私はそもそも母のボダ遺伝子を継いでいない
・その後の環境も他者と協調できるものに恵まれた

ということなのだろうな、と今のところは私の人生を分析してみて思う。


あくまでも、仮説なので、考え方のひとつとしていかがでしょうか(笑)




ちなみに、姉の話になるが小学生の頃から男の子とばかり遊んでいた。
思えばこの頃から寄生先を選定していたのだろう。
うちにくる女の子は病弱か陰キャばかりだった。

そして、高校生の後半になる頃にはH君という彼氏を連れ込むようになった。それもほぼ毎日。
大学受験だというのに、ほぼ毎日性交為をしていたのだろう。
彼氏のHさんに自宅で何度も遭遇したが、彼は一言も言葉を発っさなかった。
「おじゃまします」も、「いつもお世話になってます、心ばかりですがお土産です」も、一度も聴いたことがない。
手土産を持って、家に上がるものだとばかり思っていた私は衝撃を受けた。

中々偏差値の高い高校だったし姉はそれをバカの一つ覚えのように自慢していた。
「これだから偏差値の低いやつは」も私を意味もなく蔑むときによく口にしていた。この時点で数字に異様にこだわっていたが、卒業時には学校でも中々ない低いほどの専門へと入学した。まぁ、進学できただけ良かったのかもしれない。

母が後々、姉のいない場所で酒が入っているときに「あの高校からあんな低いとこに進学するなんて恥さらしも良いとこだ。金をかけた意味がなかった」と言われたので、知ったことなのだが。

受験の大事な時期に勉強もせずひたすら腰を振りまくっていたのだ。

むしろ奇跡である。

家に帰ったとたんリビングでH君に腕枕をされ、韓流恋愛映画を死んだ魚のような目で見ていた姉を見た瞬間に私は
「ただいってきます」を覚えた。
ただいまと言いかけて、行ってきますに切り替える謎の技だ。
しかも二人は怖いほど無表情だった。
普通は「あ、すみません!お邪魔してます!」や「あら、帰ったの?いやん!見ちゃダメエッチ!」とかだろうが、何の挨拶もないのは最後まで変わらなかった。

姉は深夜にH君に対しよく電話で一方的に口汚い言葉で罵っていた。本当に小声だが、耳を済ませば電話越しからH君の泣き声が聞こえてきたりもしたが、私は姉の声が聞こえない場所へ避難するのが日課だった。
その時に面白かったのが、散々「くたばれ」「あたしのストレスふやすんじゃねえよ、あたしの気持ちがわかんねえのくそったれが」「ぶっ殺すぞこのくそやろう」と罵詈雑言を浴びせたあとは決まって
「H君、ただの友達に戻ろう」と、猫なで声になるのだ。

最終兵器彼女という、名作漫画があるのだが、その台詞を気に入ったらしく電話の終わりに頻繁に多用していた。本当はもっと長いのだが、その漫画から書き写した紙が姉の机に散乱していた。泣きながらあの台詞を言っていたので、DV 男の典型のようでどうせまた繰り返すと私は知っていた。

漫画の台詞より日本国憲法でも暗記しろよ。と呆れていたのを覚えている。
作品のイメージを汚すなとは言わないが、他者の言葉を流用しなければ自分の気持ちを言葉にすることすらできないのだろう。

人格障害はいつだって、破壊することはできても産み出すことは何一つできやしない。

ここまでお読みの諸君は、よくお分かりだろう。

一週間もせずにまた同じ内容の電話を繰り返すのだ。

友達に戻ったんじゃないのかよ。随分お手頃な関係ですね。と、内心では嘲笑していた。
だが、かけられるHさんはたまったものではないだろう。何十分も罵声怒声が続いたかと思えば、最後は毎度の借り物の台詞で閉められる。しかも、泣きながら。
一度の電話で、激昂して号泣することなど現実にありうるだろうか?

人格障害ならばありうるのだ。

この頃、同時進行でM君という男子も家に連れ込んでいたが、姉は何の罪悪感も感じていなかった。むしろ、時間がないんだから恋愛の同時進行はとても画期的で賢いとまで、ほざいていた。そして、賢い人は皆やってる、とも。私は姉に殺意を抱いた。

私は、「今日はM君の日か、じゃ次はH君かな」といった具合に一定の距離をおいてみていた。注意したところで暴力により解決しようとするのは目に見えてるし、こんな女にかかわりたくないというのが本音だった。

結局、卒業とほぼ同時に姉はHでもMでもない男の家に住み着くようになり、家にはいなくなった。
これほどの幸せと平穏はなかったので第三の男の存在に感謝した。
勿論その男からも追い出されるのは一年もかからなかったが。

そして、数年後一人暮らししている私に深夜突然メールをしてきて、お前の家に泊めろと言い出した。
私は映画を見ていたし、今までの暴力や支配を思いだし、「深夜だしアパートの大屋さんが契約者以外は泊めるなって言ってるから」とだけ返事をして映画の続きを楽しんだ。
私のハムスターのクッションをカッターで八つ裂きにした姉を何で泊めないといけないなかわからなかったので、そのまま路頭での垂れ死んでも映画の続きの方が大事だった。

しかも、八つ裂きにしたのが子供の頃なら良い。10代後半に起こった出来事なのだ。
姉は専門に行く前辺りにこの事件を起こした。
これから社会に出る準備をする段階の年齢の人間がそんなんでいいのか?と私は心底失望した。
5歳や6歳の子供ならばまだしも、人格形成の最終段階が人の私物をカッターで八つ裂きなのだ。

姉は、私の世界ではそろそろ十回忌を迎える存在である。
実際はまだ生きていて、結婚式が近いらしいが出るはずもないし、どうなろうと何の関係もない。

話を泊めてくれメールに戻しそう。
おそらく、寄生先の男に追い出されたのは、もうわかっていた。
それにしても、深夜なのに“遅くにごめんね”などの一言もない一方的なメールだったので何年たっても人格障害人格障害なのだと痛感した。

その数ヶ月あとに、また別の寄生先ができたのか
「ご飯おごるからショッピングモール来なよ!彼氏も紹介したいし!」と言ってきた。
たまたま、休みの日だったし別の用事もあったのでいったのだが、いざ合流すればまた挨拶のない男だったし、ずっと姉の腰に手を回してベタベタと触りまくっていた。
「来る途中の車の中で~マック食べてきちゃったもんね~どうする~?」と姉が彼氏に聞いていて、何がしたかったんだこいつはと思ったが私も大人なので、ではお二人で楽しんでください。と、帰ろうとしたが、アイスおごってやるよ、と言ってとりあえずアイスおごってもらいましたが、良い年して自慢がしたいがために嘘までついて呼び出して本当に成長のない女だな、と痛感した。

人格障害が一生変わらない、ということを身を持って証明してくれた有り難い例である。


姉の場合は、ボダ&自己愛なのかもしれないが、全ての人格障害の要素が含まれている最終形体がボダなのかもしれないとも思うのだ。


ボダはこうして生まれるのかもしれない

という私の分析、略して私分でした。

セロリのプライバシー?

○セロリのプライバシー?


しったことか。


といいたいけれど、一応あの生き物にも人権があるらしいので、特定されないように書いてますし、本名を公開してやりたい気もしますが、そこまで鬼じゃないし、セロリが私に真実をいったかどうかも確証がないですからね(笑)

重要なのは、“セロリという生き物がいた”ということを一人でも多くの方に知っていただく、という事なのです。

そのため、アホみたいに興味ないなんけど、ウチはこうしてちまちまセロリちゃん(笑)のことを綴ってるわけですわな(笑)


もうね、書いてる途中何度放り投げたくなったことか(笑)
だって、自分でもドン引きするくらいセロリに興味がないんだもの!
やはり、よほど好きなことでなければ持続というものは難しいですね(笑)


とりあえず、セロリに関しては周囲の人間に迷惑をかけていなければ、それ以外望むものはないが、あの状態じゃまた被害を拡大するだろうし、まだ医者にもいってないだろうなあとしか(笑)

けど、境界性を知らない方や、確信を持てない方には、何気ない会話や違和感を文字として残すことで少しでもプラスになると思えるから、まだまだ続けます。

ときどき腐りきって異臭を発しているセロリについて書きますが、まだまだお付き合いくださると有り難いです(笑)


で、プライバシーについてですが、セロリを特定できる事は何もかいてないので特定はまず不可能でしょうね。

でも、もし、セロリがこれ読んだら傷つくのかな?ってことも考えたのですが、

答えは、NOです。

それも、大声でNOです。


セロリは同じ会話を会うたびに何時間もしていましたし、途中で私が
「その話はもう聞いたよ。そこでその職場のヒトがあなたにこう返してそれで貴方はこういうのよね?」とでもいえば、「何で知ってるんですか?」とかえってくるほど。

「もう何回も聞いているからよ」といっても
「そうですか、でもこの続きにはこういう流れがあって私はどーのこーのあーだこーだ」ってまた話始める。
話をやめるということをしない、末恐ろしいモンスターですね(笑)

なので、ここを見てもなんとも思わないし、私にしたことも全て忘れているでしょうし、むしろ都合よく改編して新しいタゲを吊る餌にさえしているのかもしれません(笑)


夜中の電話も、11時過ぎてからのメールもやめてね、と言っても次の日にはバッチリメールしてきましたからね。
痴呆なのか、20代で発症する方もいるらしいので、真剣に疑ったときもありましたが、それなら人間関係引っ掻き回したり、モノゴイよりモノゴイらしい行動もしないはずですからね。
セロリはボダ要素が満載すぎる(笑)

もうそれならいっそ、金くれ!愛をくれ!ってストレートに来てくれた方が正々堂々としていて、いっそ清々しいというのに(笑)
あげるかどうかは別として、とても気分がいいと思いませんか?

けど、セロリは周りを巻き込もうとしたり、嘘を吹き込んできましたから、相当たちが悪い。まさに、一般的とされるボダの行動をなぞるかのようでした。
それでいて、都合が悪くなると手のひら返しは当たり前なんですから。


つまり、セロリがここを読んでも「自分のことだ」と認識することもできはしないし、あのSNS 利用者にも特定はできないように名前も変えてるから大丈夫でしょう。


しかし、かいていて思い出しましたが、本当に最低な生き物だったなあ、と。


もう何年も前ですが

「うたたねさんの誕生日、祝ってやってもいいですよ?」

ときたので、さすがにブチキレてそっけないメールを返しましたね。

正月もお盆もクリスマスも絶対休まない私ですが、誕生日だけは有給をいただくようにしているのです。
友達とパーっとすんのも好きだし、もうすでにその日は予定が入っちゃってて、めいいっぱい楽しむぞ!って意気込んでたのにこの上から目線メールがきて、セロリは本当にどうかしてると思いましたね。
ガチで今まで、そんなこと言う人間一人もいませんでしたから、心底驚きました。

その日は予定あるし、仕事も順調だからセロリとはあえないし、誕生日は祝ってやるものじゃないでしょ?それを口実に皆でパーっと騒ぐ日でしょ?
そもそも、そんな風に見下している人に祝ってもらいたくないよ。

とか返したのかな。もう、ケータイも変えちゃったからおぼろですが、それでもしつこく「その月の間で1日くらいはあえませんかね?」とか「その前の週でもいいですよ、私は休みですから」とか、よく分からないことをいっていたので最終的には無視したような気がします。

なにせしつこい。

一度断っているのだから引けばいいのに。


誕生日って、もっと純粋なものだと思うの。

なんでそんな「~~してやる」っていう発想が出てくるのかな?と思えば、ボダだから。この一言で事足りるんですよね。

頼んでないし、断っているのにも関わらず、「~~してやる」というのは、大抵のボダの本心でしょう。

相手のことなど、考えるに値しないと思いきっているからこその発言ですよね。


こういう一言一言に“ボダらしさ”が出るんだと思います。

「話を聞いていただけるだけでも、軽くなるんです」

「不安定な私の話を聞いてくださり、いつもありがとうございます」


と、良く言っていましたが、本当に感謝している人が「~してやる」というだろうか。

ボダの思考は驚くほどに薄っぺらい。


セロリは、だったら話をきくんじゃねーよ。とか思っていそうだけれど「話を聞いていただくだけでも軽くなるんです」とか言われたら、そりゃ可能な限りは何とかしたいと思うのが人情でしょう。

つか、そもそもこっちからしたら、「思ってもねーこと言うんじゃねーよ」なんですけどね(笑)

本当に感謝しているならば、その腐った性根を叩き直すために自分の障害と向き合うでしょう。
大切な人だと思えるならば、負担をかけないように自分の障害を背負わせないでしょう。

セロリは本当に、悪質だなあと。

そのSNS で、悪評をばらまきますよ?とかも最後の方はほのめかしていたし、「誰々とつながりがあるし、裏のサイトですぐにちょづいてるやつは晒される」って私の事を洗脳しようとしたもんね。

もう、いいのよ。

私はそのSNS 大好きだったけど貴方と関わらなければならないのなら、喜んで立ち去るわ。

貴方は沢山の人の悪口を私に吹き込もうとしたけど、無駄な努力だったね。

誕生日は祝ってやるものじゃないのよ。

ちなみに俺はお前の誕生日を呪ってやりたいよ(笑)

とまあ、会話不可能な生き物に語りかけるほど無駄なことはないので、被害者さんへ。

少しでも、ボダっぽいな、とか、境界性なのかな?と思ったなら、直感を信じてください。

時として体一つで逃げ出したとしても、誰も貴方をせめません。
むしろ、沢山の人間が貴方に肩を貸すでしょう。

例え、世界中の人が貴方をせめたりしても、私は貴方に肩を貸して一人で歩ける場所まで一緒に旅をするでしょう。
もし仮に、世界が貴方を憎んでも、私は貴方を信じます。


逃げることを恥ずかしいことだと思わないで下さい。

境界性に対してだけは、抜群の効果を発揮します。

ゴキブリに対するゴキジェットプロだと思ってください。

個人名や特定可能な要素がなければ、境界性に何をされたか、どんな気持ちになったかを公表しても大丈夫なんですよ。

blogでその気持ちを吐き出すもよし、Twitterで境界性を知らせていくもよし。

貴方が境界性に苦しめられたのは、境界性の異常性を世に知らしめるためだったのかもしれないのですから。


一度逃げ出してしまえば、どれ程時間を無駄にしていたか痛いほど分かるはずです。


立ち上がってください。


そのために、自分の心を大事にしてやってください。

自分の心の声を聞いてあげてください。

辛いのだから、逃げてもいいんですよ。

痛いのだから、泣いてもいいんですよ。

もう、境界性に怯えないで下さい。


貴方の痛みに寄り添いたい人たちは、実は一杯いるんです。
物理的には何もできなくても、心は同じだから。

無責任なセロリ

〇無責任なセロリ



私の夢。

目標が当時あった。



そのために忙しくなるし、セロリにかまけていられなくなることを伝えた。
「私はもっと自分の可能性を試したい。自分がどこまでできるか、やってみたい」
と言ったら、セロリはなんて言ったと思いますか?


何も言わなかったんですよ(笑)。
気色悪い顔面で、ニッタニタ笑うだけで。何も。

友達は「お前ならできる!がんばれ!」「ムリムリ(ヾノ・∀・`)ムリムリ、でも、やってみりゃいーんじゃねーのwとにかく楽しめ!w」とか、リアクションは色々でも、必ず何か言ってくれたんですよ。時には手伝おうという人も、時にはもっと努力しなければダメだという叱咤激励も。

それって、言った人本人が言葉に責任を持てるからですよね。

無理だと否定して、無理じゃなかったとしてその言葉の責任は本人が背負う。
できると応援して、できなかったとしてもその言葉の責任は本人が背負う。

セロリは、私がどうなろうが興味がない。

興味がないから、その人の将来なんか予想も想像もしない。
だから、何も言わなかったんだろうな。と。
つまり、自分の発言の責任も負いたくなかったんだろうな。と。
ただ、ニヤニヤしながら黙ってこっちを見ている。
もし実現したらいいコネになるし、失敗すればなじる材料になる。

だから完全に傍観者の立場になりたかったのだろうけど、普通の人間は将来を語られたら何かしら反応を示しますよね。

けど、ボダは常に過去に生きているので、人々との未来を描けないんですよ。
周囲に愛されなかったから、その瞬間に生きているんですよ。

生まれた時に周りが自分に愛を注いでくれなかったから、ずっとその過去にすがっているんですよ。
何の意味もないことを永遠にし続けているんですよ。

だから、未来の話をしてみればいいでしょう。
そこで何も言わなかったり辻褄があわなかったり、見当違いな事をいえばその人は過去に生きていると言っても過言ではないのですから。




そして、セロリに自分の作品をあげたのだけどこれもまた笑える。
普通にお礼は言われたが、そのあとのこの言葉は生涯、永遠、絶対、忘れることはないだろう。

「じゃぁ、うたたねさんが売れたら、この作品をネットで転売して私はぼろもうけですね。オークションで高値が付きますね、とても嬉しいです」
とだけ楽しそうに言っていた。

セロリのために作った作品だったので、何を言っているのかが理解できなかった。

友達にも、何かしら力作をあげることがあったのだが、今までそんなことを言う人は当たり前だがいなかった。
大体は死ぬほど喜んでくれて、私もそれを見て死ぬほどうれしい気持ちになった。


しかしセロリの場合は、あげてから数秒でこの意見が出てくるのだ。

何を考えているのか、冗談だったとしても悪質すぎる。冗談でも言っていいことと悪いことがあり、セロリはそれを完全に踏み越えてきたのだ。
もう完全にもらった瞬間から金の事しか考えてないんだな、とあきれ果てましたね。




別の話題になるが、セロリはしょっちゅう「うたたねさんは繊細なので悩み事をためすぎたり抱え込んだりしてしまうので、何でも話してください。なんでも相談に乗ります」とよく言っていた。

絶対に私はセロリに個人情報を与えない、プライベートな話はしないと心に決めていたので何を言われても揺らぎませんでした。

こういう言葉を毎回言うのって“洗脳”だと私は知っているので、何を言われようが「相談する人なら別にたくさんいるから、セロリの時間を削ってもらわなくても大丈夫だよ」と何回も言っていましたね。丁寧に、穏やかに何回も言いましたね。
それでも次の日には忘れてしまうんですよね。

境界性との上手な付き合い方って何ですかね。

“ここまでって線を引いて関わればいい”とか、“できないことはできないと伝える”ってよく聞きますけど、できないって伝えても次の日には忘れるような生き物と一体どうやって付き合っていけってんですかね。無理だろ。物理的に不可能だろ。そんなもん、うんこに黄金になれって念じながら接し続けるようなもんでしょ。

「いつも親に虐待されたり、職場の人の悪口や、親友に対する怒りや恨みを何十分も一人でずっと話すでしょ?そういう風にストレスを抱えた人間に私の話をしてもあなたの負担になるでしょう。だから、私は貴方に悩み事は絶対に打ち明けないし、他に適切なアドバイスをしてくれる人に話をするようにしているの。だから何度言っても、私がもし仮に抱え込むような人間だったとしても、私が貴方に悩みを打ち明けることは絶対にないよ」
と毎回言うのがいやになるんですよね。

ボケ老人ならともかく。
相手は自分よりも年下の20代。

将来性も何もない人間相手にこの行為を繰り返し続けるのは、かなり堪える。

正直に言うと、精神に異常をきたしていないと不可能だ。
そもそも、私は繊細でもないし、抱え込むタイプでもない。

ストレスたまってきたなぁと思えば、食後に歯を磨く感覚で涙を流すし、繊細な部分も表現に役立っているので大胆な私で補う。

感情のバランスを常にベストの状態で保っているので、ふらつくことがない。
ふらつけば歩けなくなるし、ボダに傷つけられた人達を助けることもできない。
こうして、言葉を綴る事もできない。
だから私は常にベストの状態であり続けることができる。

私は被害者の精神状況に完全に寄り添い、涙や怒りという本音を引き出す誘発剤であり続けるスタンスなので、無論繊細な面も持ち合わせていないといけない。

ただ、それは一面であり私の全面ではないということだね。

その部分だけを表現し続けていたら、私と言う人間が繊細な人間だというレッテルを張られても仕方ないかもしれないけれど、性根はタフで自分の嫌な事は絶対にしない主義で、真に救うべきは誰なのかを絶対に見誤ることなどない精神が根底にあるので“繊細”とセロリに言われ続けることに類まれなる違和感と不快感を抱いていたのよね(笑)。

勝手に決めつけてんじゃねーよ、そういうことを続けんならお前のこと“うんこ”って呼ぶぞ。ってずっと思ってましたね(笑)。

ただ、そのころは、セロリの境界性パーソナリティー障害の部分と上手に付き合っていかなくては、と心から思っていたので、言いませんでしたが、今となっては結果が同じであれば言いたい放題やらかしてやるのもアリだったのかなと(笑)。

被害者の皆さんもちょっと思いませんか?

公衆の面前で化けの皮がはがれたボダを通行人とかが見たらどんな行動を起こすのか。
まぁ、大騒動になるかもしれないからできないけど、ちょっと想像しただけで笑えますよね(笑)。

ちょっとした突然始まるキチガイイベントみたいで、客観的視点で見ることができたなら上質なコメディに代わるかもしれません(笑)。


簡単に言うと、セロリのやってることって新聞勧誘みたいなところありますよね。
何度も断っているけれど、何回もメールや会話の中に“あなたは繊細だから。あなたには私という聞き役が必要だから”と言葉を交えて、徐々に精神が弱った時に“あ、もしかして、私は繊細なのか?それなら少しだけ相談した方がいいのかも・・・”なんてことになったりするのかもですね。

まぁ、私は職場の掃除のおばちゃんに「ちょっとうざい奴いんだけど聞いてくれます?飲みいこうぜぇぇぇ」とか、友達に「メンヘラ情報最新の入手したで。よかったらいっぱいくいっとぱあっといかへん?」ってな感じでわぁぁぁ!ってやってはい、おしまい。ですね。もしくは、一人で2時間くらい川辺を歩いたり、運動しているとどうでもよくなりますね。いかにきれいに腹筋を育てるか想像するだけで首の後ろがゾクゾクしてきていい気分になります。うふふ。次は肩回りの筋肉を育てる予定です。
なので、今の私には洗脳がきかないんですよね。

基本的に、洗脳は“不眠状態”“疲労困憊”であれば容易であり、私は常に日頃から余裕をもって生活をしているから、ボダが付け入る隙がないんですよ。
昔はゆとりがなかったので、セロリにかまけてしまいましたが、今の私なら一瞥をくれもしませんからね。


つまり話をもとに戻しますと、洗脳の手段って結構身近に潜んでいるんですよね。
例えば、何回も朝晩何通ものメールで一年間事実ではない虚偽を吹き込まれてしまうと、コミュニケーション能力が高くない人や、人間関係で慣れていない人、新しい環境で周囲に相談できる人間がいない人などなど・・・はもしかするとグラッと弱っていたときにハマってしまうかもしれないんです。

人間だから絶対に常に良好な状態を維持できるわけもないし、誰にだって不幸は訪れるものだから、そこを虎視眈々と狙い続けるボダは相当悪辣なんですよ。

ましてや、ボダは深夜のメールや電話は当たり前でしょう?

セロリも夜型の生活リズムだったので、12時過ぎてから当たり前のようにメールが来ました。
「あなたは遅く寝て遅く起きる生活でも私はもう寝てるし、朝も早いからやめてね」といってもききゃしませんでしたからね。
むしろ、朝5時にメールをしてきたりでさっぱりわけがわかりませんでしたね。
私はほぼ無視していましたが、これに反応したり朝まで付き合うと慢性的な睡眠不足となり、冷静な判断力や思考力が奪われ、ボダの言いなりとなってしまうのかもしれません。

本来こんな悪質なサブリミナル効果はやってはならないんですが、ボダは当たり前のように使用してきます。

皆さん、貴方の人格に関わることで一度それは違うと否定してそれでも次の日に何食わぬ顔でまた同じことをしてくるやつがいたら、もう二度とその生き物の言うことは聴かないで大丈夫ですよ。

その人がボダかどうかなんて、関係ありません。

しつこく同じことを何度もいう相手は、認識しないでください。

貴方の人格改竄を企んでいる可能性が少なからずありますから、その点だけでなく警戒を怠らない方が良いでしょう。

私は、ごくまれにセロリに似た生き物に遭遇しますが、「うんこがしゃべる時代か。未来は明るいな」と思っています。その後悪臭が漂ったとしても、ファブリーズをしゅしゅしまくって二秒くらいで忘れます。実際にファブリーズって開運のおまじないとして結構いいらしいですね。部屋の空気を換えるって意外といいことらしいですよ。

おかげで、しつこい新聞勧誘にもハッキリと断れるようになりましたしね。

30回くらい「いらない。帰れ」って言っても帰らない猛者がいたので、彼が帰った後本社さんに即お電話をして「キチガイレベルでしつこいダニが来たんですけど、おたくってどういうやり方で調教してるの?“新聞なんか読まなくていいから、契約さえしてくれれば俺に金が入ってその金で俺はパチンコにいけるんだぜぐへへ”って真っ黄色な歯並びで笑ってたんですけど、こういう勧誘スタイルなの?悪趣味の極みじゃないですか?あなた方のやり方なのか、彼のやり方なのかだけが私は知りたいんですけど」って電話したら「すぐにそちらに別のものを向かわせますので」って丁寧に対応していただきましたが「忙しいでしょうから私が自分の足でそちらに向かいますよ。どんな環境でこういうダニがわくのか私も自分の目で見てみたいですから」って言って押し付けられた洗剤とか持って行ったけど、割と普通でしたね。めちゃくちゃ謝られたけど、二度とうちに来ないでくれるならそれほど有難いことはないですよ。と言って終わりましたが、その後一年くらいになるのかな。誰も来ませんね(笑)。
前は隣の年金暮らしのおじいちゃんにもしつこくきていたけれど、あれから全然見ませんね。

隣の人と仲がいいわけじゃないけどおじいちゃんが泣きそうな声で、「もう帰ってください」「古紙回収だって置いておいても全然持って行ってくれないんだもん」「とにかくもう更新はしないし、新聞も読みたくないから頼むから帰ってくれ」っていうのを何十分もやってんだよね。

ちょうどなぜか包丁を三本もっていたから、まだ話すことがあるのならそのまま玄関からでて、「何かお困りですか?」って行くつもりだったんだけど、本当にしつこくてボダに絡まれるタゲみたいで見ていられなかったですわ。まぁ、包丁研いでいる間に新聞の人帰っちゃったんですけどね。しかもこれ結構遅い夜だったから、9時くらいかな、うるさかったんだよね。もう高齢のおじいちゃんでしわしわでいかにも弱者の象徴みたいな人なのに、なんでそういう人にたかんの?いらないって言ってるじゃん。ってすごく思ったんですよね。

少なくともうち周辺にはもうこないので、ありがたいことです。

新聞だったら会社に言えばなんとかなるでしょうが、ボダの場合はボダを飼っている人間がいない事が多いので、無法地帯と化すこともよくある事なんですよね。

いっそこの際、新ビジネスで「ボダを管理する特務機関」とか作れば割とぼろもうけできんじゃねえの。って思いますが、実質は刑務所と変わらないでしょうから維持費の方が高くつくし、何の将来性もないし、精神的にも非生産的で離職率も高そうだし、関係者の自殺率も高まりそうだから、難しいか。

ただ、彼等の扱いに長けた人間がもっと出てきた方が人類全体としてのバランスは保てるんだよなあ。

現状では被害者がひたすら泣き寝入りでしょ。
鬱になったり、トラウマを抱えたり仕事や家族をなくしたり、国を追われたりで関り損でしょ。でも、人間だからどこかで関わらないとっていう人権侵害だって糾弾する人間もいるっちゃいるでしょ。いやまあ、ボダに人権はないんだけどな。
人権って人間にしか与えられないものだと思うんですよ。
でも、ボダって人間の気持ちがわからないからあんなことやそんなことしでかすでしょ。それも好き放題。
人間の気持ちがわかるならば、山や家に引きこもって絶対に出てこない手段を選ぶでしょ。ていうか、それしかないでしょ。

それなのに、のこのこ出てきて自殺者増やしてショウガイダカラーって言うのは、何かおかしくないか?っていうか、何もかもがおかしいと思うんですよ。

障碍者であるならば、そういう村や地区を作り、厳しく管理していかなければならないのではないかと私は思います。

それが人類の責任なんじゃないかなと。

管理する側のメンタルの管理も徹底してね。相当なダメージがあるだろうから、かなり高給になるだろうけど。
ボダが責任を放棄するならば、人類側で責任のある行動を起こしていかないとならないんだと思います。

可愛そうだから、虐待されていたから、ショウガイだからって何しても許されるわけがないんですよ。

痴呆の老人が事件を起こさないために、施設で管理されるのと同じくらい自然なことであって欲しいと私は願います。

被害者がどんどん病んでいくのをただ見ているだけならば、その人ももう人間側ではないのかもしれません。
人を助けたいと思う時には、自分がどうなろうと構わない、そんな事など気にかけていられない何かがあります。
もしも、これを読んでいる人の中でも身近に被害者がいて倒れそうなときは支えてあげてください。

追い詰められていて、もう限界にきているのがわかったら、すぐに助けてあげてください。

手を握るだけでも、ただ抱き締めるだけでも、側にいるだけでも、絶対いい方向にいきます。
何もできないなんてことはない。

ボダと関わったから自業自得だと突き放さずに、本当に純粋にボダに殺されそうな人間が困っていたら迷わず手を差し伸べてください。
周囲の意見に左右されずに、自分で真に助けるべきものを見極めて、命が散ってしまわないようにしてあげてください。

本当に助けるべき人達は、大声で喚き散らして等いません。

本当に死んでいく人はひっそりと誰にも迷惑をかけずにいってしまいます。

もし後悔があるのならば、次の被害者を助けることできっと貴方も報われます。

人間として責任のある行動をしていきましょう。

被害者の逃げたあとの心の変化

○被害者の逃げたあとの心の変化


しばらくセロリのことばかりで、頭がこんがらがってきたので、少し休憩がてらに“ボダ被害者の逃げたあとの心の変化”を記してみよう。

私の場合で語らせていただく。
そして、周囲も同じ様な被害にあったことがありその時の心理変化を照らし合わせ私なりに分かりやすくまとめたものだ。

あくまでも参考程度に。



境界性人格障害から逃げ切ったあとに被害者に訪れる心境変化を、大まかに3種にまとめた。



1、 開放故全能感期

2、 無意識的破壊衝動期(強制的謝罪要求期)

3、 凪



そのまんまだ。
漢字ばかりで読みづらそうだが感情の変化は大体こんなところだろう。
感情は目に見えないけれど、文字化することで、貴方のお役にたてる可能性がより高まるかもしれない。



まず、
1、 開放故全能感期 について。

ボダから距離を置き、見事物理的に離れられた人間が過度に「これからはなんでもできそう!」と無駄に自身を肯定的に過信する事だ。
ちなみに、俺の場合は「この銀河の支配者になる」とか本気で思っていた。今はそんなんより、風呂上がりにスイカバー食べることの方がよっぽど重要です。
個人差はあれど、ポジティブな意識や、クリエイティブな思考になる段階だ。


今まで自己の感情を、ボダがいない場所でも抑圧されていたので、その期間の感情が一気に放出される。

指でギュッと押さえられ水のつまっていたホースが勢いよく、ぶっしゃあああ!となってるとこを想像してほしい。



この期間はボダに洗脳、操作され思うようにできなかった趣味や人間との心の底からの純粋な会話、本当に自分が好きだったことをとことんやってみてほしい。

しばらくは、放心状態で何も考えられない状態が続くかもしれないが、その場合は専門機関を訪ねてもいいかもしれない。

具体的には、

ボダと関わった時間✖2倍の時間(ボダと2年関わりがあったとして、4年以内に自分が自分でないような感覚が拭えないなら貴方の傷は貴方が思っている以上に深刻な場合がある)

がたっても、ボダに会う前の自分を取り戻せない、思い描けないのであれば自浄作用が機能しづらい状態にまで下げられている可能性があるので、恥ずかしがらずに専門家の力を借りれば良い。
大丈夫、先生は絶対に貴方を殴らないから(笑)。

簡単に言うと、ボダに奪われた自我の再形成期、または再確認期間だ。






2、 無意識的破壊衝動期 について。

ボダと関わった時間や積み重ねた思い出を根こそぎ破壊して何もなかったことにしたい、と強く思いそれが常時頭の中から消えない状態。

なかなか、大変な時期だと思う。

感情が不安定になり、フラッシュバックが一番頻繁に起こる期間。

突然涙が止まらなくなったり、物をメチャメチャにしたくなったり、ひたすら怒鳴ったり叫んだりしたくなる人もいる。
一時的にボダに似たような行動をとる人もまれにいるが、その途中でどれほどボダが愚かしいことをしているのか気がつく段階でもある。


1、開放故全能感期で取り戻した自我や、本来の自分の好きだったことすらを破壊したくなる場合もある。


勢いよくホースから放たれた水をボダめがけてぶちまけたくなるはずだ。

人により、ボダに謝罪を要求しなければ公平ではないと感じることもあるであろう時期。
つまり、不条理のつけを取り戻そうと心が躍起になって暴れている状態。
ちなみに、俺は「セロリを微塵切りにしたい」と真剣に怒っていた。そのお陰で玉ねぎを刻むのが上手くなりました。


 

3、 凪

もはや、ボダなど貴方の世界にはいなくなり、何者にも染まることの無い貴方に出会う時期である。
何者にも己の心が破られることはないのだと、全身全霊で感じることのできる期間。(多分死ぬまでずっと感じる)


辺りには結構な水溜まり、人によっては海ができているかもしれないが、ここには小波も波紋すらもない。ただありのままの貴方を移す透明な液体がそこにあるだけだ。
そしてその水溜まりにボダが映ることはない。


上の二つがあったからこその悟りの段階。
特に、2を飛ばしてこの期間はあり得ない。
あるとすれば、怒りの感情を奥深くに沈めきっているか、それ以上に押さえつけることで平静をたもっている状態だ。

その場合は、怒りとそれ以上の感情で噴出しないようにしているため、自分では気がついていないが、相当な負担がかかっている。

もし怒りの感情を抱かなかったのであれば、その方が欠陥&問題である。

 

因みに頭のいい方はお気づきであろうが、
この、
1、2、の過程ははまんまボダだ。


1、はボダでいうところの、飴ちゃん
2、はボダでいうところの、鞭だ。


過度な肯定や賛辞と、攻撃的なまでのこき下ろしを別の形で体現、内側から体感することにより自分自身の細胞に刻み込み、もう二度と被害に合わないためのいわば、“究極の自己防衛システム”なのだ。


この過程を、程度と内容の差こそあれど自分自身で染み込ませたなら、もう二度と被害に会うことはないだろう。



2、の
ボダと関わった時間✖2
と言ったが、この時貴方は無意識的かつ一方的にボダの感情を押し付けられていたはずだ。

つまり貴方は、

・ボダの一方的な感情

・それに対する貴方の感情(主に嫌悪感や不満等ネガティブなもの)

を同時に所有することを強いられている。望まなくとも貴方の心は2倍の負荷がかかってしまっていたはずだ。
だから、2倍という計算にしたがこの間別のボダにたかられていたのなら、3倍の時間で計算してみた方がいいかもしれない。四人ならば✖4といった具合に。
なんにせよ、長期戦であることは変わらない。
関係を持っていた時間の倍以上は時間を要すると思ってくれて構わない。


 

個人的に小学生~中学辺りで保健体育みたいに、人格障害という授業を学ばせてみては?と思う。

目には見えない分野なので、講師には負担がかかるとは思うがそれに特化した分野の者を配属してもいいかもしれない。
その子供の未来や将来、命に関わる問題なのだから。


やはり自衛が一番なのだから。
国策として、取り入れるべきだと割りと真剣に悩んだ時期もあったのだが、そんな倫理に反することは現段階では人類には難しいだろう。

“もしも処分したボダが、まともな人間であったら?”という疑念を完全に払拭できない限りはやはり自衛に限る。
もし、そのシステムが構築されたとして、高性能ボダが進化してその網目を掻い潜らないとも言いきれない。
だから、いつの時代でも自衛が最善だと私は思う。

向こうも進化していたちごっこなのだとしても。

被害者は理解されづらい

○被害者は理解されづらい


ボダを攻撃したいわけではないが、被害者の痛みの軽減には、ボダをネタにしたり鋭く切り込んだり、罵倒しなくてはならない時もある。

なぜなら、ボダのやり口は表面化しづらいからだ。

水面下で、とても巧妙にタゲをしぼり一方的な洗脳や虐待を繰り広げる。

タゲが、勇気をもって誰かに相談しても、時すでに遅し、それすらも予測され先回りされていることも多々あるからだ。

真剣に被害を訴えたり、相談しても「あの人に限ってそんなことはありえない」「貴方にも非があるのでは?」という、頓珍漢な返答が帰ってくる場合も沢山あるだろう。


だからこそ、事実を広めていかなければならないし、可能な限り被害者の気持ちに寄り添って、矛盾を指摘できる心理状態に持っていかなければならない。

そのためには、「いくらなんでもいいすぎでは?」と思われることも重々承知だ。
だが、このくらいぶっとんだり頑固なまでの精神力でなければまた同じことの繰り返しだろう。
根本的解決にいたるまでの、ショック療法のようなものかもしれない。


被害者に真に必要なのは、ボダへの怒りを噴出するきっかけの言葉だろう。
もしくは、腹の底から笑い飛ばす言葉もありだろう。

勿論身近な人間も助けにはなるだろうが、被害深度により誰のことも信じられない状態にまで落とされている被害者も少なくないはずだ。

だから私は、ときおり過剰かな?と思えるほどにボダを非難したり断言する。
そうでもしなければ、とてもではないが被害者の心の傷は癒えない事を知っているからだ。

そもそも、ボダの本質を指摘するだけでもかなり悪質なことは解っているのだが、それ以上に被害者の気持ちに寄り添うにはこの方法しかないと体験しているからでもある。

時に、この一面のみを見られて誤解されることがあったとして、それでも被害者の傷が少しでも小さくなればそれに越したことはない。
私にとってそれ以上の幸せはないのだ。


一人でも多くの被害者の心の重りを軽くできることを願い、今日もいきます(笑)

覚悟の深さ

○覚悟の深さ



ふと。

なんでこんなことしてるんだろう、と思うときがある。

問いただすまでもないのだが。


ボダに傷つけられたひとたちを救うのに、私の命を削っても何一つおしくないから。

それどころか、このまま何もせず死んでいくことの方がよほど悲しいことなのだと私は知っているからだ。


ボダは自分が生き延びるためなら、周りの人の心を殺してもなんとも思わない。

私は、被害者を生かすためならば、私の心を殺すことさえも厭わない。


真逆の覚悟があるから。
ボダとは、完全に反対方向のエネルギーに恵まれているからだと。



君がボダに憎いと100言われたなら、私は君に愛していると1000回伝えよう。

ボダに被害者が1000ぼこぼこにされたなら、私は被害者を10000万回抱き締めよう。




本当に傷ついたものを救いたいと思うときに、人は自分がどうなろうと構わないと思えるものだから。

だから、例えこの世界の全てのボダが私に憎しみをぶつけたとしても私は涼しい顔をしていられるのでしょう。


仮に、億万が一にボダが私を物理的にも精神的にも抹殺できたとしても、私の意思を次ぐものが現れるでしょうね。


すべての
いじめっこ=ボダ
とは言い切れないけれど、やってることは限りなく酷似してるんですよね。
なんかしらの人格障害をかかえてなければ、人を死ににおいやることなどできはしないのだから。

ここ数年でやっと、表面化しているけれど、自殺したものがかえってくるわけでもなく、加害者はのうのうと暮らし続けるんですよね。



マスコミさんが嫌いな訳じゃないけど、いじめという言葉を使うのはそろそろやめ時なんでしょうね。

認めたくないのもわかります。
子供が子供を殺すなんて、本来あってはならないことだから。


私は、いじめという単語を素直に“虐殺”“拷問”と言い換えてもいいと思います。

“いじめを苦に自殺した○○中学の~”
よりかは、

“拷問され自殺した○○中学の~”
といった方が、すっきりしませんか?

なんで、そんなぬるい単語で隠そうとするのですか?

それが物理的であれ精神的なものであれ、同じことでしょう。

私は“一人が百人を殺す”より“百人で一人を殺す”方がよほど業が深いと思います。

命の重さは皆同じですが、殺す側の百人が、“俺だけのせいじゃない”という逃げ道を作ってしまうことこそが、罪の深さを産み出すのだと思います。

危害を加えた本人達の意思に関わらず、罪悪感は潜在意識となりより大きな結果となり帰ってくるでしょうね。

五人で一人を虐殺したのなら、五人を殺しているのと何ら代わりはないと私は思うのです。

殺す側が、一発ずつ殴ったのだとしても、殺される側は五発殴られています。


殺される側からすれば、手を挙げた五人は等しく平等に罪深いからです。


こんな当たり前の事すら曖昧にしてしまうから集団の殺意はより罪が増すのです。

因果を読み解けないように封じてしまうだけでなく、罪の擦り付けあいも業が深まる要因のひとつだと私は考えます。

ボダが必ず標的を自殺に追いやるとは言いませんが、程度の差こそあれ心を殺していることにかわりはありません。
むしろ、その後の被害者の生きづらさを思えば死んだ方がマシだと思う方がいてもおかしくはありません。

何も信じられず、誰とも心を通わせられず、いつも何かに怯えながら生きなくてはならないのであれば、それは生き地獄でしょうから。

だから私はこうしてボダの存在を広めたり、被害者に寄り添い続けるのでしょう。

ボダがいる限り、被害者は増え続けるのだから。

でも、被害者の皆さん。安心してね。

ボダが一人いたら犠牲者は一人で収まるわけがないのはよくご存知よね。
ボダ一人に付き何人、何十人の人間が苦しみ耐え抜いていることを、よく知っていますよね。


貴方は誰よりもわかっているはず。

だから、世界がボダを相手にしなくなる日も近いのよ。
世界中からボダが愛想をつかされる日も必ず来るのよ。

ボダは自分で自分の首を絞めているのよ。

一人でも多くの人間から愛されたいがために、一人でも多くの人間から愛を奪い心を殺して、逃げ出されてそれでもなおそれを続けて、自分で自分の悪行を広めているのに気がつけてないのよ。

自分で自分の醜悪さを広め続けているのに、やめることすらできないのよ。

愛されたいなら、愛すればよいという単純な考えすら持たない、いや、持てない生き物なのだから。

確かに、あちら側に進化するもの達も出てくるでしょう。

でもその度に、こちらも自衛手段を更に強化していけば恐れることは何もないのだから。

そして、人間で有る限り、柔軟な心を持つ限りそれは可能なのだから。

自身をもってね。
自信をもってね。

覚悟と共に。