セロリの虐待話
○セロリの虐待話
※注意
御食事中や、心が弱っている方、虫が嫌いな方は読まないでください。
読んでしまっても責任はとれません。
今回の内容は、嫌いな人には精神的負担をお掛けする可能性が高いので、閲覧は自己責任でお願いします。
「私ゴキブリ食べさせられたことありますよ」
ファミレスで食事中にセロリが突然こんなことを言い出した。
今なら「なんだ~ゴキブリって共食いするらしいからやっぱお前ゴキブリなんじゃ~ん」と満面の笑みで言えるが、どう考えても食事の際にする話ではない。
しかも会って数回目の話だ。3回目くらいだろうか。
俺「え?!どういうこと?」
セロリ「油が入っている缶があったんですけど、その中にゴキブリが入っていたので」
俺「?」
セロリ「他の野菜を焼くさいに、その油をしいて野菜炒めを作っていたので、ゴキブリを食べさせられたんですよ」
俺「いや食べてないじゃん。それゴキブリ汁じゃん、ゴキ汁じゃん。食べるって虫の形そのままかと思ったよ」
セロリ「いや、母の手料理のブロッコリーに小さいゴキブリがついてたこともあったんですよ」
なら、最初からそっちを話せよ。
つまり、私の気を引けないとわかると、この数秒の間で新に「ブロッコリーに小さいゴキブリがついてたこともあったんですよ」という嘘を捏造し出すのだ。
お粗末な頭である。
そもそも、本当に虐待されていた人間ならわかることだが、こんな話を会って数回の相手にするだろうか。できるだろうか。
出来ないだろう。
嫌な気分を味わったからこそ、そんな気分を伝えようなどとは微塵も思わないはずだ。
ましてや、物理的に拘束されていたのでなければ、食べないという選択肢もあったはずだ。
私の母や父は私を縄や縄跳びで縛ったことがあるが、それでも口まであーんとされても必死の抵抗もできるはずだ。
両手両足が自由なのに、食べさせられた というのはいささかちぐはぐな気がする。
そして、セロリの母はガンでこの世を去っている。
確か中学か遅くても高校にはいる頃には他界しているはずの設定だった。
末期のがん患者が料理などできるだろうか。
出来たとしたなら、なぜ手伝わなかったのか、なぜ母に全てやらせたのか、等分析すればするほど粗が目立つ。
セロリは、はじめてあった日も「はじめてあった気がしない」「本当の姉さんみたい」「聖母のような方だ」等と言っていた。
最終的には「前世は双子だったんですよ」「息がピッタリですよね、私達」「うたたねさんのことは何でもわかりますもん」
(俺がお前を嫌いだということは、わからなかったみたいだな(笑)。)と双子にまで昇格していた。お前みたいなちぢれ毛ヘアーじゃないから、一緒にすんなよ。
外見も全くにていないのにこう言うことを平気でいうので、大分ネジがぶっとんでるか、質の悪い薬でもキめてるとしか思えない。
どれも気味が悪かったので適当に合わせていたが、数回しか会ったことがない人にこんな言葉を送る被虐待者がいるだろうか。
むしろ、虐待されていたからこそ本能的に警戒しないだろうか。
相手を信じるまでにとても時間がかかるはずだ。
今までも私の人生の中で、こんなにも短期間でで気色の悪いことをほざいてきた生物はセロリしかいない。
私は母親に抱き締めてもらったことなど1度もないが、私は私を可哀想だなんて思ったことは1度もない。
可哀想だから同情して、などとは一度も思ったことがない。
恵まれない環境で育ったからこそ、対等に見てもらいたいと思った。
今まで家族の誰にも人間として扱われなかったから、他の人間には同情されたくなんかなかった。
同情とは、人間を最も見下した行動だろう。
対等であることを学ぶために私は生まれたんだ。
真の対等とは互いを尊重し合うことだ。
暴力や、洗脳、束縛、意思の剥奪では決してない。
それが互いのためだと信じたからだ。
それが人間のためだと信じているからだ。
セロリは、同情されることで興味を保ち、それが難しいとなると適当に嘘で嘘を塗り固め、そして矛盾を指摘されると鬼のようにぶちギレるという何とも典型的なボダだった。
常々、話が微妙に変わったり、虐待の内容がとんちんかんだったりしたのだが、指摘すると何分も黙りこんだりで会話が途絶えることも頻繁だった。
言うまでもないが、親しくない間柄であるボダに同情は不要だ。
逆に言えば「同情してよ」という態度を出している生き物にこそ、無関心をくれてやるべきなのだ。